1-3 主従制「タテ秩序」を生んだ「ヨコ社会」

 主従制秩序というと「タテ社会」の典型のようだが、中世・近世を通じて、決してタテのみで組織が作られたわけではない。むしろ中世は「ヨコ」機能が強烈に働いた社会だった。一揆という組織というか運動体が、武士から農民まで様々なレベルで形成された。地域をベースとし、社会階層を超えた大規模・広域の徳政一揆も起きた。

 特に南北朝から戦国初期に盛んで、鎌倉時代に主流だった一族(血縁)結合が崩れ、家が独立していくと、個々の家より大きな武力を持つ敵を前にして、同一地域を地盤とする中小武士が平等な立場で連携する動きが見られた。有名な「一味神水」のような儀式で盟約を誓うこともあった。これは「仲間との約束を破ったら神罰を受けます」など神との誓約を書き表した起請文を神前で燃やし、その灰を水に溶かし、仲間全員が飲むことで集団の結束の確認・強化する当時の習慣である。

 一揆は反権力と決まっているわけではない。上野国(群馬県)、武蔵国(埼玉県)を中心とする中小武士団の白旗一揆は、南北朝争乱のときは足利直義勢力の下で働いたが、足利氏の家臣になったわけではない。この白旗一揆は上野と武蔵で分裂したりしたあげく、室町時代には武蔵守護の上杉氏のもとに入った。室町時代には京都周辺起きた正長の土一揆が有名である。これは農民だけではなく、馬借(運送業者)など商工民が加わり、年貢減免、借金棒引きなどを要求を通してしてしまった。この時代の一揆は、要求する相手は守護大名ばかりでなく幕府そのもののこともあった。この一揆の背景には、農村が惣村という形で自立性を高めてきたことがある。外部の権力への自己主張のため地侍と連合を組み、室町時代末期には国単位の広域にわたる一揆を起こしたこともある。山城国一揆は短い期間だが外部の権力を排除し、自治を実現している。

 戦国時代になると戦国大名が在地支配力を強化してくるが、これに対抗するものとして、宗教共同体の一向一揆が力を強めてくる。加賀では守護を追い出し、「百姓が持ちたる国」として長期間の自治を実現している。しかし、織田信長、徳川家康など戦国大名はこの一向一揆を武力制圧することで全国政権への道を開いた。全国的には石山本願寺が信長と妥協することで、一向一揆の時代は終焉を迎えた(1580年)。在地のネットワーク、自立性などを取り込むことで、権力を強化し、広域支配も実現したのである。

 鎌倉時代・室町時代・戦国時代を通過する中で領主間秩序が形成されるとともに、主従制は在地を含む社会を広く覆う方向へ向かった。この運動は徳川幕府の成立で一応完了した。粗く言って、1200年から1600年までという長い期間を必要とした。ただ、細かく言えば、完成ではない。徳川家が政治のトップであるのは確かだが、外様大名、特に国持大名は譜代大名と同じ意味での「家臣」ではない。一国を支配する誇りから、徳川家と本来は対等という意識を捨てなかったはずだ。

 もちろん、幕藩体制のトップは徳川将軍ただ一人である。タテの階層秩序は完成している。百姓一揆は起きても、それが体制を揺るがすわけではなかった。監視も行き届き、もはやヨコに広がる一揆は起きようがない制度だった。しかし、そのタテ秩序の中から、幕末には薩摩・長州などの下級武士を中心に「倒幕一揆」が生まれたとは言えないか。江戸250年の沈黙を破り、一揆の伝統が復活した。ただ、その目指すところは、徳川政権以上の「タテ社会」であったのだが。

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