3-5 変遷する「兵(つわもの)の道」

 武士の成立に関する論争は長い。奈良時代まで起源をたどる本もある。武士にも変遷があり、公家に仕える用心棒的な武士、半分農民である武士、芸能者としての武士など、江戸時代の武士とは異なるイメージの武士もいた。しかし、武士と言えばやはり、武闘派の一面を欠かすわけにはいかない。歴史的に初期に出てくるのは、平将門を討ち取った藤原秀郷だ。10世紀初めころの人物だ。下野の土豪であり、乱暴をして一度配流された。その後も下野守に訴えられている。農地開発をして税を巡って国司ともめ事になったらしい。11世紀半ば成立の「新猿楽記」には芸能者の一例として都の武士が出てくる。最後の武士が1867年とすると、約1000年、武士は続いたことになる。

 歴史が進み、武士は荘園の領主、国衙の役人(在庁官人)として現れる。藤原秀郷も戦功により下野守になり、子孫は下野国などに定着し、荘園の管理者となっている。かなり先だが、鎌倉時代初期の弓の名人秀郷流藤原氏の下河辺庄司行平は「庄司」という役職に就いていた。荘園の管理は何も税金計算だけではない。周囲の「敵」から荘園を守ることも業務である。こうした荘園の管理者(地頭)を糾合した組織が鎌倉幕府であり、ここでは武士は地域支配者として現れる。幕府の有力御家人の千葉介常胤は「介」という、国衙の役人としての一面を持っていた。地域の最有力者としての顔である。

 院政期から鎌倉時代にかけては戦争が相次いだ。武士は戦場で潔く戦うのが理想だが、それは美学、倫理のためではない。汚いことをすれば評判が落ち、結局は損になる。一生懸命戦ったことは軍(いくさ)奉行、同輩が知らなければ意味がない。中世には軍忠状というシステムがあり、戦功を主君に報告し、同輩がその証人となる。それが恩賞につながる。一族、一家のプラスになるように死ぬ。結構計算高くドライである。だまし討ちの例はたくさんある。討ち死自体を賛美なんかしない。それだけ一族、一家の戦力が落ちるのだから、犬死にはしてはいけない。「兵(つわもの)の道」という言葉はあったが、戦場での行動に焦点を当てて、まだ一般的な倫理には至っていない。

 主君というのも、鎌倉・室町時代では絶対的に固まっているとは限らなかった。実際、軍勢催促状(大将が味方を募る)が複数の大将から来た場合は、最も強く恩賞をくれる大将に付いていく。足利尊氏は気前がいいので、人気があった。強くない大将に付いていくのは自殺行為である。一度御恩と奉公の関係に入れば別だが、それ以前なら去就は自由である。二つの陣営が激突する場合、子弟を両陣営に分けて参加させることも常識だった。どちらに転ぼうと、子孫は安泰だからだ。あまりにも勘定が勝ち過ぎているようだが、命を掛けているのだ、損得を十分に検討しないほうがおかしい。

 戦国時代になるといささか様相が変わってくる。城下町に集められた家臣は主君(戦国大名)と物理的にも近接する。常に同じメンバーが合戦に加わる。主君のほうも家臣が戦死をすると、家族を養うのが義務となっていく。遺族に冷たくすれば、次の合戦で誰も本気で働かなくなる。この負担があるため戦争は、負けそうならやらない。勝ってもやたらに敵を殺さない。官僚として、戦力として優秀なら、味方に付けたほうがいい。

 そして江戸時代、平和な世界。武士は世襲官僚として主君に仕える。実戦がなく、戦場の緊張感、連帯感は経験しようにも機会がない。何代も前からの主従関係を背負っての官僚。ここで現れたのが「武士道」。どうしても観念的になる。極端に走る。儒教などから派生した非人間的な徳目を並べているようで、武士道は内容空疎になっていく。

 明治維新では武士が自らの特権を放棄した。新たな役割に挑戦した武士が沢山いた。どうしても分からないのは、西南戦争の西郷軍だ。強制的に駆り出された戦士も居たが、損得を超えた武士の「誇り」に支えられていた人々もいたように見える。福沢諭吉の西郷擁護論も、その心情は、現在のわれわれには完全には理解できないのではないかと感じる。いわば「幕末の武士道」のノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)の感覚を実感できなくては、本当は明治維新の歴史も理解できないのではないか。

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