日中戦争を回顧した日本の軍人たちは、口を揃えて「負けた気がしない」という。確かに個々の戦闘では勝った。しかし、戦争とは戦闘だけではなかった。
中国の国民政府は、戦闘は弱かった。日中戦争は盧溝橋事件(1937年7月)から日本降伏(45年8月)まで(満州事変=31年9月=からの連続性もあるが)。北京・天津をすぐに制圧し、上海(37年11月)、南京(同12月)と破竹の勢いだった。そこで日本は38年1月に「国民政府を対手(あいて)にせず」という声明を出す。戦果に浮かれていた。国民政府は徐州(38年5月)、広州(同10月)、武漢(38年10月)を失い、四川省の重慶に首都を移転した。中国全体で見れば中心を放棄して辺境に逃れた。
盧溝橋事変から1年余で大都市を制圧した。しかし、敗戦まで、この制圧地域は基本的には変わらなかった。日本は重慶に猛爆撃を加えたが、兵站が伸びきって追い詰められなかった。日本の最大の敵は大陸の広大さにあった。中国は持久戦に持ち込み、英米を中心とした大国と結んで、日本を孤立させる戦略を選んだ。もともと軍事関係ではドイツと親しかったが、提携相手としてドイツを選ばなかった。
中国の当時の人口4・5億人という巨大さは、マーケットとして欧米資本の垂涎の的であり、強国の利害が錯綜する。その独占を狙う日本の「東亜新秩序」に対して、必ず世界が反対すると、蒋介石は盧溝橋事件以前から考えていたという。しかし、頼みの欧米はなかなか日中戦争に介入してこなかった。経済先進地区の上海での戦いがきっかけになると期待したが空振りに終わった。国際連盟に提訴しても、37年11月のブリュッセル会議では中国が提案した対日経済制裁には至らなかった。
したがって、41年12月に日本がアメリカに宣戦布告したのは、日中戦争の国際化という、国民政府には待ちに待った事態だった。重慶に逃れて3年後のことだ。
「負けた気がしない」日本の軍隊も、「勝った」とはいえない。中国の歴史を見ると「勝つ」という意味が分からなくなってくる。中国は何度も異民族に負けた。元、清という征服王朝が代表例だ。しかし、「勝った」側を呑みこみ、消化して「漢民族」にしていく中国の胃袋は強靭だ。膠着状態が日常化し、侵入側はいつのまにか負けていた。
1935年ころの中国を巡る外部勢力は、かつて植民化を推進したヨーロッパ勢(英仏VS独伊の対立を含む)、侵略しなかったアメリカ、いま侵略中の新興日本、共産圏のソ連(ロシア)である。結果を知っているため、難問には見えないが、どこと結ぶかは大変難しかった。さらに内部的には国民党VS共産党という、巨大勢力が戦っていた。
重慶の国民政府が、現実に物資援助を受けていたのは、ソ連、英米だった。ソ連と国民政府ではイデオロギーは正反対だが、ソ連としては日本を中国に足止めさせ、満州の北に攻めてこないようにしたかった。ソ連はドイツと日本の二正面作戦を避けたかった。蒋介石は「反共」ではあっても、ドイツ、イタリアの枢軸側にはまったく目を向けなかった。共産党も総本山のソ連から自立していった。
中国にとって最も厄介だったのは、国共対立だった。国民政府は外交で最後の勝利は計算できても、抗日戦で着々と華北に地域を獲得していく共産党との競争に対しては決め手を欠いていた。日中戦争が終わった時、国民政府は世界の四大国に位置づけられた(米英ソ中)。国民政府の外交の勝利と言える。しかし、国内的には「戦いから逃げた」という批判を受けるようになり、その後の内戦では劣勢に立たされた。アメリカの援助物資の横流しなど、腐敗も問題にされた。
ともかく、ここで注意したいのは、外交の練度である。日本は明治以来、日清戦争(1894年)、日露戦争(1905年)、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)と戦争を続けたが、日露のときは開戦と同時に終戦工作を始めている。列強の利害関係を読んで、アメリカを仲介として終戦に持ち込んだ。
この明治のリアリズムと比べると、戦前昭和の国際感覚・外交手腕は劣化した(もちろんマトモな外交官なども多かったが)。力で押すだけの単純さだった。実態と離れた、空疎な言葉(たとえば近衛声明の「大東亜新秩序」)に酔う、知の頽廃に陥っていた。
敗戦にともない政治制度は根本的に変わった。しかし、劣化した外交は回復したのか。戦後から現在まで、外交に関しては「思考停止」が続いている。知の頽廃とまでは言わない。アメリカのアジア拠点の役割を一貫して担って来た。だからアメリカが誤った時は同じ間違うことになる。この屈辱は何としても避けたい。一方でアメリカは日本が「暴走」しないように監視している。残念なことに、この監視に異議を唱える他国がない。
明治の先人たちは「独立」をめざし、不平等条約改定に全力投球した。現在のアメリカへの追随を見たら、幕末の高杉・木戸・大久保などは、憤死するだろう。戦争をせずに独立を守ろうとした江戸幕府の幕閣も、泣くだろう。もちろん、「大東亜共栄圏」の夢を追うなどとんでもない。もっと普遍的な、自立の足場を探る努力を放棄してはいけない。その前提は世界を善玉・悪玉の二分法で眺める簡易法から離れることだ。複雑な国際関係をリアルに認識・分析して、自分の道を探る知恵こそが必要なのである。