おわりに

 「何処から何処へ」という全体タイトルなのに、「何処へ」をまったく書いていない。歴史学は史料に基づいた事象に自己限定し、未来・推測を語ることには禁欲的である。しかし、未来(「何処へ」)を見据えることも、歴史事象の重要度を測る作業として必要である。

 

 (1)危うい、アメリカ依存の国民国家

 これまで日本列島の人々は共存に成功してきた。古くは大文明の中国を横目に見て、それへの対処が「外交」だった。近代にはその目線が西欧に移り、幕末には「列強に侮(あなど)られないこと」が至上命題だった。

 現在、旧来の「先生」である中国が復活・巨大化し、西欧はヨーロッパ、アメリカが異なる道を歩み始めた。しばらくは、中国とアメリカの競争が世界を揺さぶるだろう。ヨーロッパは一歩引いて、どちらかといえば「内向き」を貫くだろう。米中の競争がかつての世界大戦のような事態を引き起こす可能性は少ない。ネット社会での経済・文化交流は権力の外でますます活発化していく。閉鎖的な面を残した20世紀とは構造が変わった。

 米中の対立・妥協の中で、日本は選択を迫られる。いや選択の余地はなく、同盟国アメリカの側に立つ以外ない。敗戦国として、また「核」への安全保障を依存する立場からして、基本は動かしようがない。しかし、米中の間で、いかなる役割をするかは、選択の余地がある。昔からの日中関係、戦後の親密な日米関係を武器に、対立宥和へ走り回ることはできる。視点はアジアをはじめとする中小国家の自由と安全である。この役割を追求すれば、アメリカの属国ではなく、アジアに友人ができる時代がくる。

 もう少し長い目で将来を考えた場合、国民国家という枠組みが変化する可能性がある。一つは、ユーロ圏に見られるような一国の範囲を超えた、巨大市場を作ろうとする動きが加速する。経済的に単一の巨大マーケットがもたらすメリットを追求するのだ。たとえば、多くの新薬開発には莫大な資金を必要とする。それは一国のマーケットから得られる利益を超える。すでに経済分野は、国を超える動きでは政治に先行している。

 もう一つ、アメリカ、中国などの大文明が優勢になると、対抗して他の文化を持つ人々の自文化へのアイデンティティが強くなる。たとえば、イスラム圏の西欧への「反逆」(自己主張)が弱まっていくとは考えられない。中小国家が自らの存続をかけて同様の文化を持ったグループを結成していくこともありうる。現在の国民国家がサバイバルの「足枷」になるならば、新たな共存の枠組みを考えるほうが自然だろう。

 米中対立が起きた場合、国内がアメリカ派、中国派に分かれて争う可能性がある。冷戦時代の自民党(アメリカ)対社会党(中ソ)の対立の残像に過ぎないかもしれないが、いささか心配である。これまで海に囲まれた列島で、日本語を話して暮らしてきた人々は、自然に統合(インテグレーション)されてきた。しかし、「どうせ分裂しないのだから」と、反対派に対する攻撃に歯止めが掛からなくなり、その結果、能力主義の組織原理を破る、不公平人事が横行すると、質の低下した荒(すさ)んだ社会になりかねない。

 それとは逆に、能力主義の組織原則は変わらないまでも、現在の「自分が過小評価されている」という不満が満ちた状況から、「納得のいく正当な相互評価」の社会への手がかりが見つけられる時代がくる可能性もある。経済・文化の変動が加速する中で、口先ではない、何度も自由なチャレンジができる社会を次の目標に設定してもいいだろう。

 しかし、いずれにせよ、「先生」に縛られない、「独立」への希求は当然続くだろう。しかし、その実現は簡単ではない。それが実現する条件の一つは、アメリカが政治的威信追求のため、経済的に地盤沈下を続け、太平洋を越えた地域に軍事基地を持ち続けられなくなった場合だろう。ソ連の崩壊はアメリカに対抗した、過大な軍事費負担が一つの原因だった。本当は「覇権争い」の不毛に気づくことが根本的解決策なのだろうが。

 

(2)覇権争いに飽きる時

 さらに先、悠久の世界を考える。米ソ、米中対立などの大国を焦点とする政治は、いつ以来なのだろう。古代のアッシリアは、紀元前3000年くらいに成立し、周辺の国々と戦争を繰り返した。もっと前からかもしれないが、少なくとも5000年間、人間は大国の組織的暴力を経験してきた。さすがに「これではいけない」と考えた人も多かった。権力的な暴力、支配・被支配関係からの脱却、個性を発揮できる自由が人々の夢だった。

 キリスト教、仏教、イスラム教など、いずれも殺生を禁じている。イスラムについては岩波文庫「コーラン(中)」211ページ参照。殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれなど、もはや普遍的正義といっていいだろう。政治ではフランス革命の「自由、平等、博愛」の理念に反対するのは難しい。「いいこと」はすでに言われた。だが実現できていない。

 この「いいこと」が実現している世界こそ、「何処へ」の答えに違いない。その実現が難しいため、多くの人が夢を描き、達成を見ずに死んでいった。いま生きている我々も同じ運命を甘受せざるをえない。こうした夢の世界は一足飛びには実現しないだろう。現在の延長線上を前進・後退を繰り返しながら、一歩一歩進む以外にない。キリスト教の最後の審判、マルクスの階級を廃絶する革命などは起きない。夢の世界をもたらす「理論」「信仰」が新たに現れることもないだろう。変化をもたらすとすれば、科学の進歩だ。生命科学、脳科学などから、新しい人間観が生まれる可能性がある。しかし、それがなくても、人は夢の光を失わず、そこへの歩みを止めないだろう。

 いつか覇権争いの世界が「過去のこと」だと、誰もが思うようになったとき、それまでの数千年を一括して、石器時代の次に、「武器時代」という時代区分を歴史家が設定する。それを人々が「分かり切ったこと」と笑う。こんな平和な日常がいずれ来るのだろう。

(「おわりに」を書き終えたが、HPは今後も追加・修正をしていくつもりです。)

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