日本の歴史は、基本的に内発的な推進力により変化してきた。しかし、これまで根本的な仕組みを変える飛躍の多くは、自分より強い海外勢へ対抗する危機意識がもたらした。「先進性は海外から」といえる。しかし、優れていると判断した海外の制度、文化を受け入れるにしても、複雑な選択を伴った。受け入れた制度・思想を、危機が去ったのち時間をかけて骨抜き(日本化)した例も多い。
海外からの直接的な影響を受けた事件は、主なもので四つある。第一は古代の白村江での敗北(673年)、第二は中世のモンゴル来襲(1274、1278年)、第三は江戸末期のペリー来航(1853年)、第四は昭和の太平洋戦争の敗北(1945年)である。第三、第四は一連の西欧の衝撃と見なせば、対外的衝撃により大きく内政が動いたのはわずか三回である。
このうち第一の古代、倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗北したのち、日本は唐の侵略に備えることにした。その前から統一を回復した中国に対抗して、乙巳の変(645年)により集権制に進んだが、それでも敵わなかった。ヤマトの指導者はショックを受けただろう。そこで敵の力の源泉を学び続けた。
最新鋭の国家機構だった律令制をほぼ丸ごと受け入れた。ただ、唐と逆に律(刑法)より令(行政法)に重点を置いた。宦官、科挙制は受け入れず、兵制も国民皆兵というべき独自の軍団制である。神祇官も独特である。成文法、文書行政、史書、租庸調制、公地公民制などは貪欲に受け入れた。初めて(だろう)原理に基づく、永続的な「組織」を手に入れた。敗戦後若干の中断があるものの、文明を求めて遣唐使も続けた。
普遍的なものを吸収する一方、かつての倭の五王とは異なり、唐離れも追求した。唐と肩を並べる大国であることを主張したかった。「神の子孫」の国なのだ。いかに唐が巨大でも、「質」が違う、と。だから前史を目一杯長く設定した。神武天皇の即位は紀元前667年。中国の戦国時代(前403年から)の前、いわゆる春秋時代である。さらに唐と同じような華夷秩序も設定した。北狄=蝦夷、西戎=朝鮮、南蛮=熊襲。
しかし、唐の広い大陸を治めるシステムは、元々は遊牧国家にルーツを持ち、ペルシャまで伸びた交易路を支えるものだ、という知識は持っていなかっただろう。大陸で作り上げたシステムを、根から切り離して日本に移植した。背景が分からないから、唐に心酔した恵美押勝(706~764年)のように、官職名まで唐風にする軽薄な模倣すら行われた。
第二のモンゴル襲来は、緊急事態に対して幕府が元と交渉し、交戦を選択した。有名なクビライからの牒状(1266年)は、国交を求めるもので、無礼とまでは言い難い。文末の「兵を用いるに至りては、それ孰(だれ)か好む所ならん」の部分を挑発・恫喝ととらえるにしても、返事を出すべきだった。元は6回にわたって使者を派遣してきた。民間での経済・文化交流は盛んだった。それを受けて朝廷は返書を出そうとしたが、北条氏が潰した。朝廷は外交権を失った。
幕府はモンゴルについて正確な認識を持っていたかどうか。第一回目の戦闘(1274年)は、72年の2月騒動(六波羅探題の北条時輔を誅殺)により準備が遅れた。元より一族の内紛を優先した。北条義時なら時輔を九州の戦争に送っただろう。いささか危機感が乏しかったとはいえないか。二回目(1281年)は、幕府が御家人以外の寺社領一円地の武士に、軍事動員をかけた例がある。非御家人への支配拡大を狙ったのである。
乱は武士が戦い、朝廷・寺社は祈祷に励んだ。乱後、この寺社への恩賞は武士以上に手厚かった印象がある。朝廷・公家と寺社の距離を広げることを狙ったのではないか。幕府は対外危機をチャンスに変え支配強化を進めたのである。
1281年の戦闘は旧暦の6~7月であり、台風に見舞われ、それを「神風」とする観念が浸透した。これは太平洋戦争で米軍のB29に破れるまで、日本を呪縛した。
第三、第四は、ペリー来航から始まる。最大の特徴は、日本の外交が初めて西欧と向き合ったことである。それまでの依存と反発の両面性を特徴としてきた対中国外交は、清朝・中華民国の弱体化により後景に退いた。西欧文化を貪欲に吸収しながら、その一方で反西欧化の心情を昂進させた。この先進文明へのアンビバレントな対応は、日本の歴史に一貫して見られる。実際にはいつも先進文明に乗った側が勝った。維新(敗戦後も)により、日本の組織は大きく変わった。古代に続く、海外対応に基づく大転換である。
近代日本は西欧の植民地展開を眺め、その真似をしようとした。自分が植民地になることを恐れつつ、西欧と肩を並べようとした。江華島事件以来、大陸への進出は国是と化した。しかし、異民族を支配する経験も、中国のような超広域国家を運営するノウハウもまったくない。個々の戦闘で勝っても、それからの統治のほうが難しいことを、理解していなかった。列島内部での「自己中心」的心情が、他国の中で無邪気に実践に移された場合、うまく運営できるはずがない。これこそ、お雇い外国人教師に巨額な報酬を払って、個々の専門知識を吸収する以上に、西欧から学ぶべき知恵だった。
この近代の経験はデジャヴュ(既視)の感覚を覚える。海外から押し寄せてきた波への対応ではなく、日本から海外へ働きかけた経験である。例はきわめて少ない。古代の任那はよく分からない。室町時代まで飛んで、倭寇(前期倭寇)がやっと現れる。
そして最大のものが秀吉の朝鮮出兵、狙いは明の征服だった。天皇を北京に移し、日本は新天皇が即位するという、気宇壮大な計画だった(天正20=1592年5月18日付 朱印状)。しかし、戦争の先導役を命じた朝鮮が言うことを聞かなかった。李朝、明との戦争は、大名を制圧するのとは意味が異なり、また大陸での戦闘は戦力もケタ違いに必要なことが理解できていなかった。歴史的に中国は匈奴、突厥、モンゴルなど遊牧国家と一体で運営されてきた面が強いが、そうした隣人とは別の唐突な侵入者だった。
仮に、明という巨大国家と何回かの戦闘で勝っても、その後支配する技術はまったく持っていない。誇大妄想を思い知らされ、憎まれるだけの暴挙だった。中国を盟主とする冊封体制の有効性を証明する結果をもたらした。同じ構造が明治以降にも、繰り返された。
対外関係では、思想が政治関係以上に大きな影響を残した。古代の仏教、中世に渡来し江戸時代に普及した朱子学(儒教)が代表である。意味の大きさで言えば、戦国時代に九州などで盛んになったキリスト教、あえてもう一つ上げれば近代のマルクス主義だろう。
キリスト教は一時的な流行に終わった感がある。「侵略意図」などから政治に圧殺された。ただ、あの徹底弾圧ぶりを見ると、神の下の平等などが、体制に恐怖感を抱かせたのだろう。戦前のマルクス主義弾圧もよく似ているのではないか。
仏教は古代に受け入れるか否かを巡って、蘇我氏と物部氏が対立したように、論争を経て受け入れた。しかし、時代が進むうちに、輪廻転生の苦から脱出する修行、といった原点から離れていったように見える。儒教は江戸時代に朱子学が体制哲学になったように言われるが、理気の理論を形而上学的に深めるより、日常道徳の次元にとどまっていたようだ。仏教、儒教とも、ごく少数の専門家を除いて、その用語は多く残っているが、普及した内容は日本的な知識、日常道徳を補強したにすぎなかったのではないか。
こう眺めてくると、歴史的には日本の海外対応は、「自分を貫く」姿勢を自ら変えたことはなかった。変える必要がなかった。海という防壁が、それを可能にした。丸山真男のいう「古層」が生き続けられたのである。強制されて変えたのが1945年の敗戦後である。その民主化は自立した変化ではなかった。後ろ盾のアメリカに合わせた結果、非アメリカ世界が遠景になってしまった。現在も政治的にはアメリカの目で世界を眺めている。この視野狭窄が一層昂進し、それが悪く転がると、かつての自己中心の姿勢に似てくる。それがアジアなどとの無用な摩擦を生み出さなければいいが。