2-19 「昭和維新」をどう読むか

 昭和の戦前、いわゆる国家主義運動が盛んになった。井上日召、北一輝、大川周明、権藤成卿などの思想に影響された軍人は、反体制の色彩を帯びた行動にまで進んだ。その頂点が五・一五事件(昭和7年)、二・二六事件(同11年)である。有名すぎる事件であり、経緯は明らかになっている(特に「二・二六事件と青年将校」筒井清忠が、分かりやすい)。

 五・一五事件は将校のテロだが、直前の血盟団事件(民間人のテロ)とワンセットである。しかし、二・二六事件は青年将校だけで軍の一部を巻き込んで起こした。よく指摘される通り、君側の奸を排除した後、新たな人事、組織などのビジョンはなかった。あとは仲間だと信じていた幹部がうまくやってくれる。自分たちはあくまで捨石と考えていた。

 二・二六事件は北一輝の「日本改造法案大綱」(執筆は大正8=1919年)に基づく行動だった。「法案」第一条は、天皇大権の発動により3年間戒厳令を布き、君側の奸を一掃することを規定している。その意味は、それ以前に北が執筆した「国体論及び純正社会主義」に詳しい。この著書の14章が国体論の中心をなしている。これを乱暴に要約すると、日本の「国体」は君民一体ということに尽きる。現状は天皇と国民の間に、悪い奴が入り込み、国体を害している。一体性の回復、「天皇の国民」から「国民の天皇」への転換(革命)が必要で、平等に重点を置いた社会改造を鼓吹している。

 この君と民の間に入って国体を乱す奴、藤原氏、頼朝、北条氏、足利氏、徳川氏という反国体の敵を打倒したのが明治維新だった。本来の君民一体が回復したのに、いま君民の間を有力者が邪魔をするようになった。藩閥、財閥、軍閥、政党などだ。だから昭和維新が必要という。この論理は北一輝も大川周明も共通している。(もう一つ、石原莞爾系の人たちの昭和維新は、石原の唱える「世界最終戦争」に勝つことであるという)。

 二・二六事件で処刑された青年将校のリーダー磯部浅一の獄中日記の中に「天皇陛下、何という御失政でありますか、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」といった文章が何度も出てくる。奸臣を打ち払ったのに、それが犯罪にされた憤懣。なぜ忠臣が罪に落とされた。忠臣を遠ざけるという、国体から逸脱した昭和天皇は祖先たちに謝れというのだ。

 二・二六事件の主だった青年将校は、銃殺されるとき「天皇陛下万歳」を叫んだ。しかし、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一はこれを言わなかった。北一輝が「形式的なことはやめよう」と言って、他の三人がそれに従ったと言われる。しかし、磯部は北一輝の「法案」に心酔していたとはいえ、あの天皇さえ「叱る」性格である。本当に黙って銃殺されたのか。北一輝が何といおうと、忠臣として「お諫め申し上げた」のではないか。あるいは、天皇への絶望から沈黙したのか。史料だけでは、本当のところは分からない。

 ここでは少なくとも二つのことが言える。一つは明治維新という60数年前の出来事のイメージである。明治維新運動では、純粋に君臣一体を考えた人々もいたが、そうした多くは倒幕過程で倒れていった。生き残ったのは世過ぎ術に長けた政治的人間だった。君民一体というシンボルを大事にした運動だった。そのシンボルを使って薩長の下級武士が有力大名、一部公家を巻き込み(ある意味ではだまして)、幕府を倒したのである。徳川家が将軍職を放棄した空白に、運よく潜り込めた(そもそも明治天皇の前の孝明天皇は幕府を倒す気なんて全くなかった)。下級武士たちが権力を握っても、政治的正統性は弱い。それを補強する強烈な切り札が天皇シンボルだった。

 二・二六事件で襲撃され女中部屋に逃げ込んで助かった岡田啓介首相の回顧では、昭和10年代の民間右翼を「天皇をかさにきて、独裁政治へもっていこうとするもので」、「その背後にはほんとうは軍の一部がいた」と評している。しかし、考えてみれば、明治以来の政府(軍部を含む)自体が「天皇をかさにきて」いたのである。その意味で君民一体は建前から下せない。しかし、近代国家として官僚化が進むと君民間は距離が開いていく。だからこそ、明治維新を「君民一体」が実現した出来事というイメージで語らざるをえない。これを「再現」しようとした、真面目で不器用な青年将校がいたのである。

 もう一つは、当時の状況が「窮屈」な社会へ向かっていたことである。陸軍では統制派(自分で名乗ったわけではない)vs皇道派の争いが始まり、近代的組織をめざす統制派が主導権を握った。永田鉄山が構想した国防国家、すなわち統制経済への道という官僚化が見えてきたのである。それは「君民一体」などという人間的・情緒的要素を削ぎ落した効率重視の世界である。理屈は正しくても、冷たく渇いた世界である。それが逆に人間的な要素を含んだ「君民一体」という神話を魅力的に見せた。

 北一輝は明治維新を「天皇を含む国民の民主主義の実現」ととらえた。その言説は天皇と議会を最高機関と位置付ける。後に官民挙げて攻撃した天皇機関説そのもの。著書「国体論及び純正社会主義」では「機関」という言葉を何度も使っている。

 よく言われる通り、明治国家は近代(民主主義)と古代(天皇親政)とを二本柱としていた。それを言葉に表現したのが、伊藤博文グループが作った明治憲法だった。天皇親政という面を象徴するのが11条のいわゆる統帥権の独立である。山県有朋などが軍隊への政党の影響を遮断するために作った規定である。

 しかし、天皇親政と民主主義はそもそも水と油である。民草の決定と、天皇の決定が異なる可能性はないのか。そこには触れず、天皇と国民は「矛盾しない」と強引に理論化したのが北一輝の「国体論」である。読みようによっては、天皇を民主主義の論理の中に引きずり込んだ。北の言う高天原流の天皇主義者から見れば、「危険思想」である。しかもその文章は人を引き込む「魔力」を持っていた。しかし、「改造法案」もそうだが、「国民の天皇」のため、日常の世界でどういう組織に変えたらいいのかは、書かれていない。

 そして君民一体の運動が挫折したとき、統制派の無機質な独裁が始まった。要は東条英機の世界である。石原莞爾は「東条上等兵」と呼んだと言われる。「自論」がない(と石原は言う)事務処理の天才が最高権力をえたのである。下々は命令によって動く機械。永田鉄山流の合理主義は消え、明治以来の戦勝に酔った非合理が蔓延した。

 いまでは広く知られるように、天皇親政どころか、表面を糊塗するだけの忠誠の裏で、天皇無視(明治憲法違反である)が加速していった。その結果としての、アジア・太平洋戦争。悲惨な、涙なしに読めない戦場。その実情はすでに山のように刊行されている。

 戦後とは、明治維新が内包した矛盾のうち、天皇親政が消え、民主主義が残った姿と言える。明治維新の最大の功績である、身分制の消滅=能力主義の世界が全面化した。その意味では。戦後と明治維新は連続性を持っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメント

お名前 *

ウェブサイトURL