江戸幕府後半の財政難は、「質素倹約」といった一過性の政策で解消できる性格のものではなかった。よく引用される大口勇次郎氏の研究を要約してみる。
〔享保15年(1730年)〕
幕府収入 79万両 (うち年貢50万両、御用金3万両、貸付返納2万両、ほか)
幕府支出 73万両 (うち切米・役料30万両=幕臣の人件費、ほか)
〔天保15年(1843年)〕
幕府収入 154万両 (うち年貢60万両、御用金15万両、貸付返納20万両、ほか)
幕府支出 144万両 (うち切米・役料40万両、ほか)
収支はどちらも小幅な収入超過だが、天保15年には収入のなかに貨幣改鋳益金39万両が含まれている。支出に占める切米・役料は享保が40・7%、天保が28%である。天保は質素倹約を続け、幕臣の犠牲、貨幣改鋳の上にやっと黒字にしている。しかし、次の弘化元年(1844年)には本丸修復費83万両が加わり大幅赤字だった。(大口勇次郎「幕府の財政」日本経済史2(岩波書店)1989年10月)
年貢収入が伸びないなか、都市の豪商中心に御用金・上納手伝金は伸ばしている。収入構造を農村偏重から都市へと重点を移行している。赤字になった弘化元年には御用金・上納手伝金が年貢収入を上回るほどになっている。幕府はコメを基本に置いた財政から懸命に脱却しようとしていた。それでも財政逼迫から抜け出せない。もはや、構造的赤字に陥っていた。数字からすると、人件費負担(切米・役料)が何としても過重だ。だが武家政権で「人員整理」は不可能だろう。徳川の家臣には、三河以来数百年という主従関係を維持してきた人々も多いだろう。それを切り捨てたら、組織がもたない。
江戸時代の寛政の改革(18世紀末)の際は、一つ覚えの「質素倹約令」とともに公金貸付拡大により、幕府が財政を再建しようとした。それ以前から公金貸付制度はあったが、融資対象がきわめて限定されていた。融資の狙いは、生活破綻者が増えて社会不安を生むのを防止することに重点を置いた。町人、農民、商人など対象者を大幅に広げた。大商人も融資対象になった。幕府の財政収入拡大が急務だったためだが、民間の資金需要も旺盛だった。融資拡大は景気にはプラスに働く。しかし、景気抑制的な政策も併行して行っている。例えば、旗本・御家人救済の棄捐令(6年以上前の借金棒引き策)は、貸し渋りを呼ぶだろうし、文化の統制も消費減につながったはずだ。
幕末の騒乱のなかで、最後の将軍徳川慶喜には、大政奉還後、家臣の西周が新たな政府を打ち立てる場合の「政体書」(議題草案)を提出した。(大政奉還前に津田真道も日本総制度という案を提出)。そこでは中央政府組織を検討しているが、なぜか財政構造については触れていない。徳川慶喜は回想にあたって「(次の政体構想など)わが方には何もない」と言い切っている(「昔夢会筆記」)。幕府財政が破綻に瀕していることを慶喜周辺が知らないはずはない。だが幕府の人員を前提にして、将来像を描くのが不可能だったのだろう。
江戸幕府に資金の余裕があれば、国防・人材育成など新たな政策を手掛けることもできたはずである。もちろん江戸幕府は財政赤字で倒れたのではない。基本的に身分制で固定されていた組織が、想定外の事態に、柔軟に対応できなかったのである。
今の日本は財政赤字を累積させ、「いつか問題が起きるのではないか」と心ある人々は誰もが心配している。幕末に巨大な借金を抱えた薩摩藩は、二五〇年賦の返済計画を強行した。借りた者の強みだ。当時と比べると、いまは金融手段が格段に進歩しており、「薩摩藩のような荒業を使わなくてもすむ」と楽観する根拠がないわけではない。が、江戸幕府は分かっていても動けず、破綻を待つしかなかった。この前例だけは避けたいものである。
現代日本は、きわめて粗く言うと、50~60兆円の歳入に対し100兆円の歳出である。国債は日銀が最終的には購入するため、政府の資金に不安はない。国債の外国人の保有がまだ全体の1割程度のため、その売りに神経質になる必要もなさそうだ。海外との関係では経常収支が黒字のため、外国為替を通じた悪影響もいまのところ心配ない。しかし、人口減は歯止めかからない。漠然とした将来不安が広まっているからだろう。
経済では明治以来の官僚の統制がいまだに広く残っている。これからは「柔軟な対応」を阻害する官の介入をできるだけ縮小する必要があろう。業界の中には、××業協会的な団体が取り囲んでいる例がある。業界団体は個々には存在意義があると説明可能なのだが、なくてもすむものもあるはずだ。「命と安全」に関する以外は身を軽くすべきだ。規制緩和策はこの30年以上、景気が悪化すると必ず出てくる。しかし、景気が回復すると、いつの間にか忘れられる。したがって政治家も企業家も、あまり腰を据えて取り組まなくなった。あまり熱心にやると二階に上がってハシゴを外すされる恐れがあるからだ。
江戸に学ぶ点は外交だ。江戸幕府は秀吉の朝鮮侵略の後始末を優先した。明、清とも国民の海外渡航を禁止する「海禁」政策だったため、日本の「鎖国」はアジアとの政策協調でもあった。このため国際紛争が起きなかった。明治になってからアジアとのトラブルが始まる。この点いまでも「アジアの盟主」的な発想を続けている傾向がある。大事なのは国民が仲良く、平和に暮らせればいいのだ。他国との競争意識は煽らないほうがいい。