ブームはいつしか去ったが、ピケティの r>g が終わったわけではない。rは資本収益率(return on capital)、g(growth rate)は成長率。資本収益率は成長率より大きい、という「法則」が歴史的に成立しているという議論である。あくまで経験則だが、資本収益で暮らしている人の収入の伸びは、賃金生活者の収入の伸びより大きい。ここでrは「利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値でわったもの」と定義される。gは普通の経済成長率だ。
ピケティの議論はマクロの話であり、実感としてはよく分からない。そこで、あえてミクロの単純な例に「翻訳」してみる。資本収益で暮らしている人は大金持ちである。
Aは株式を10億円持っており、2%で運用して2000万円の収入がある。
Bは賃金収入が1000万円ある。Aが2000万円のうち半分を消費し、1000万円で株を買い増した。2%で運用すると、次の年は買い増し分からの配当が20万円。トータルで2020万円の収入になる。
Bの賃金の伸びは資本収益率より低い1%だとすると、次の年の収入は1010万円になる。結局、AとBとの収入格差は開いてしまう。
単純化しすぎだが、「資本」が働く人より豊かになっていく。豊かな人はより豊かになり、貧しい人との格差は広がっていく。言われなくても実感として知っている。
これはマクロの議論であり、Aが失敗してBのようになり、Bが一念発起してAになる可能性もある。そうした出入りを総計して、資本の収益率(r)が、成長率(g)を上回るという。では、rとgの差はどこから来るのか。この理論をピケティは説明していない。昭和40年代に勉強した人なら、マルクス経済学の「剰余価値」という言葉が浮かぶのではないか。ともかく、ピケティは21世紀にも格差が拡大していくと予想する。
かつて植民地で大農場をもっている西欧人が、現地の労働力を使って儲けた。これと資本が労働力により太っていくのは、どこか似ている気がする。暴力を使わず洗練されているが、何か不公平感は残る。格差の拡大を抑制するシステムを、資本主義は内蔵していない。税制(累進所得税、相続税)など非経済的手段を駆使しないと、不公平が進む。
資本所有を通じて格差が広がるとしても、経済運営の効率性を考えるなら、価格メカニズムは否定しがたい。経済学の初歩の初歩である、需要・供給は価格変動により量的な均衡が達成される。この均衡点を前もって知ることはできない。かつての社会主義圏の失敗は、計画経済が価格メカニズムに遥かに及ばなかったためである。この価格メカニズムを維持しながら、不平等を緩和する社会システムはできないのか。価格メカニズムを通じて時間をかけて資本所有が決まるのであり、それを止めることは経済的にはできない。
もうひとつ、資本主義の欠点がある。昔、英国の思想家のラスキが書いていたが、「利潤動機に動かされる社会」は危ないという。社会主義圏の崩壊イコール資本主義の勝利ということで、資本主義批判のツールが消えた。「利潤動機」が合理的選択をもたらすのは確かだが、そこで現れてきた社会現象は、エゴの肯定ではないのか。ネット普及も後押ししているのだろうが、人間関係の希薄化が起きている気がする。弱者切り捨てでいいのか。
資本主義の組織にわずか「抵抗」しているのは、「生協」など協同組合だろう。会社との違いは議決権が出資額に比例せず、組合員が平等に持つ点だ。また一人の出資額が全体の四分の一までに制限されている。さらに出資額に応じて払われる配当は一割までとの制限がある。大金持ちが巨額出資をして、儲けの手段にすることができなくしてあるのだ。
このため会社オーナー(資本の過半を所有するなど)の儲けのために働くという感覚は生まれないだろう。事業である以上、専門的な経営者が必要なことも確かだ。そこには業務のヒエラルキー(階層秩序)が生まれる。能力による一定の格差は仕方ないのだろう。
こうした組織体では、例えば大きな投資をするとき、会社の増資のようなことがしにくい。新たな出資を集めるには、大きな収益を期待できる枠組みが必要だからだ。さらに機敏に新分野に進出するのも難しそうだ。こう考えると、協同組織が可能なのは、生協のような、活動が目に見える地域密着型産業しかないのだろうか。
もしそうなら、ピケティの言うように、格差は広がらざるをえない。それが進み、貧しい人の比率が上がると、消費マーケットが広がらなくなる。それが行き着くところまで行って、もう耐えられないという地点になって、初めて強力な対策を考えるのでは遅すぎる。かといって、かつてのように「総力戦」体制のような強制的同質化は、なおさら好ましくない。「見えざる手」のような、いい知恵はないものか。