3-1 武士が天皇家に反撃するなんて

 承久3年(1221年)、「とんでもない」事件が起こった。教科書に必ず出ている承久の乱である。辞書の説明では、多く「後鳥羽上皇が倒幕を図って挙兵した」とあるが、承久物語などによると、初めはそれほど大袈裟なことではなかったらしい。

 正確にいうと、後鳥羽が、寵姫亀菊が保有している荘園(摂津長江荘・倉橋荘、場所は不明)の地頭(税を集めて領家・本家など上級者に納付する)を替えることを、執権の北条義時に要求した。これに対し、義時が拒否した。理由は「この地頭は主君だった源頼朝が決めたのだから変更できない」。これを受け、後鳥羽は北条義時追討の宣旨を発した。三代将軍・実朝が暗殺され、鎌倉幕府は代わりに四代として親王を派遣してもらおうとして拒否されるなど、背景は複雑である。後鳥羽はこの宣旨により、幕府が畏れかしこまると軽く踏んでいたらしいが、意外にも合戦に発展してしまった。

 鎌倉御家人たちは上皇との合戦に尻込みする者も多かったが、ここで頼朝の奥方の政子が演説したことになっている。「殿(頼朝)の御恩を考えれば、鎌倉を敵に荒らされてはならない」。最終的決断は長老の大江広元(公家、長州藩主・毛利氏の祖という)の一言だったという。「実際にやって天道の判断を仰ごう」。戦争は鎌倉方の圧勝で終わった。戦後、後鳥羽上皇は隠岐に配流(ほか順徳上皇、土御門上皇も配流)など、例のない厳しい大量処分となった。後鳥羽方の武士も約3000カ所の所領を没収された。この所領を鎌倉御家人に恩賞として分配することで、鎌倉幕府は弱体だった西国にも権力基盤を築いた。

 鎌倉御家人の圧勝の要因は、御家人の現実的な生活防衛に基づく真剣さにある。鎌倉将軍に結集する御家人の、主従制に基づくエネルギーが爆発したのだ。御家人を信頼して北条泰時(義時の嫡子)は十数名で先行出発した。これに御家人が続き、大軍に膨れ上がった。ベースは武士の結束力である。ただしこれは倫理の問題ではない。実際にこの軍では脱落・反乱を起こさせないように、御家人間で相互監視する組織編制だったらしい。こうした縛り、損得勘定が、律令以来の権威を体現する上皇の権威を相対化したのである。極めて現実的な判断が優先する世界なのである。したがって承久物語は、平家物語の王朝的な描写、滅びの美学は消えて、話は殺伐としてくる。文学的にはほとんど評価されないらしい。この戦いでは兄弟が宮方と鎌倉方に分かれて戦うことも見られたが、どちらが勝っても、一族、家は存続する。御家人の選択は極めて打算的なのである。

 承久物語はこう描く。宮方の負けた三浦胤義が院御所に行って「門を開かしましませ」というと、上皇は君達(きんだち)を中に入れると、鎌倉の武者が取り囲むだろうから、「只今はとくとくいずくへとも引き退け」と心弱く仰せ下された(「新日本古典文学大系43」)。胤義は院を信用し、謀飯を起こしたことへの恨みごとを言う、お決まりの展開である。こうした戦記物語が事実を伝えているかどうかは別として、御家人が公家に軽く見られ続けている恨みを思い起こす場面だろう。しかも、いまや優越感とともに思い出す。

 後鳥羽上皇は、腕力も強く、自分で刀を打ったと言われる。貴族を集めて水泳を練習させたことがあり、藤原定家はこれが嫌で逃げ回っていた。個人的には「武闘派」であっても、戦場には行かなかった。「一所懸命」という言葉がある通り、御家人は自分の所領に命を掛けている。それを簡単に「よこせ」といわれ、武士は怒ったのだろう。そこを後鳥羽は読み違えた。なお、この長江・倉橋荘の地頭が誰だったかは分からない。承久物語にも、吾妻鏡にも書かれていない。北条氏の誰かが持っており、そこを後鳥羽が狙ったとも見られる。この荘園の地頭は、亀菊の荘園なので税を渡さないという意地悪をしていたのではないか。あるいは北条氏は憎らしいほどスキを見せない一族であるため、もしかすると地頭騒動は後鳥羽への挑発だったのかもしれない。それにしても。件の亀菊は乱ののちどうしたのだろう。そもそも本当にいたのだろうか。

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