頼朝は、初めは「幕府」を作ろうとは思っていなかったのではないか。御家人の地位確立を目指して段階を踏んでいたら「幕府」に行き着いた。だからいつから「幕府」という政権になったと明確には言えない。東国武士が受け入れたのは「鎌倉殿」である。「幕府」という組織ではない。京都と関係を持っている貴種頼朝が、東国で地元の武士とパーソナルな主従関係を結んで家人にしていった。家人が増える過程で組織が必要になった。鎌倉殿の事務局であり、逐次充実していく。武力も統御する。鎌倉殿は、朝廷との関係を武家に都合よく作る、東国武士には不可能なことをした。これで武家は自立を始めた。
幕府は在地領主(荘官)すなわち地頭の集まりだった。荘官は荘園から税金を徴収し、本所に送るのが仕事だ。もちろん、灌漑など農耕ができる環境を整え、自営田により種籾を確保する。荒地があれば再開発する。荘園内に市が立つ地域なら道路、船着き場を整備し、治安維持に力を入れるなど、業務を果たさなければならない。
しかし、自分の荘園以外を相手にする必要はない。つまり一国のなかに荘園が散在し、その荘官が鎌倉殿の御家人になった集団が初期の幕府なのである。政府というと、国土全体を県・郡・町など地域編成するのが現在の常識だろうが、鎌倉幕府の場合、御家人を管理するだけで、地域を管理するわけではない。政府というより荘官の同業者組合、政治的には圧力団体に近い。守護は地頭を統率する組合支部長だろう。
初め地頭のいる荘園が散在していても、荘園が増えていくと地域を覆うようになっていく。鎌倉殿は謀反などで荘官を追放すると、跡地に地頭を据えていく権限があった。敵方所領の没収、御家人への分配が地頭制度を成長させたと川合康氏は強調する。しかし、荘官の任命権は本来、本所にあったはずだが、本所の頭越しに地頭を任命している。それに対し東大寺など本所が抗議して撤回させた例もあり、抵抗もあったが、多くは鎌倉殿の主張が通った。本所からすると、年貢が入ってくるなら荘官は誰でもよかったのか。
ともかく平家没官領は500カ所、承久の変での没官領は3000カ所という。これを御家人に分配した。御家人が徴税をおこなう荘園が増えていく。武家が強くなることを望まない後白河院が、よくこんな幕府肥大化のシステムを許した。武力には敵わなかったのか。寿永2(1183)年の「東国沙汰権」がこの道を約束したのだろうか。
この鎌倉殿が守ってくれる地頭・御家人という社会的地位を手に入れたことで、武士は安定収入、社会的評価を得られるようになった。院政以前の朝廷秩序に依存し、いつ交代を迫られるか分からない不安定な状態から脱した。武士として「自立」した。もっとも、律令制成立以来500年、遥かに仰ぎ見た朝廷の権威は、鎌倉殿に比すべくもなかったはずだ。官位が欲しくなるのも分かる気がする。実際に「自立」に必要なのは、鎌倉殿、在地との良好な関係である。自立はしたが、在地での安定的支配者へ脱皮するのは、厳しく言えば、まだ先の話で、御成敗式目が出てからだろう。御家人の裁判基準が安定性を得ることで、全国的社会階層としての武士が「成立」した。次第に「賎視」も消えていった。
よく初期幕府を「東国国家」と解釈する論を目にするが、頼朝には東国独立も頭になかったはずだ。荘園制を前提にすれば、地域分割の「独立国家」は考えられない。たとえば下総国千葉荘(現在の千葉市の領域)は地頭が千葉氏、本所が京都の八条院(鳥羽上皇の愛娘)で、天皇家の荘園である。千葉氏は集めた年貢を京都に送る義務があった。東国には御厨(みくりや)と呼ぶ伊勢神宮に年貢を払う荘園が数多くある。鶴岡八幡宮が土佐から年貢を得ている例もある。東西交錯した関係が成り立っており、東西を切り離すことは実際上できない。古い表現だが、上部構造は分離できても、下部構造は一体だったのだ。
頼朝は流人として東国武士を十分に観察した。もともとは京都生まれ、京都育ち。13歳まで京武者を見て育った。それから20年、挙兵するまで現地で妻を娶り、東国武士を見てきた。京都大番役3年など、朝廷・公家に使われ、死屍累々。武士の中に「自立」を追求する動きが現われてきていた。この夢を追う波に頼朝は乗った。頼朝に粛清された上総介広常の「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサン」という愚管抄巻6が伝える有名な言葉も、天皇軽視というより、武士の自立を指向する心情である。しかし、巨大な武士団を擁する広常は、頼朝が構想する主従制にとっては、邪魔だったのだ。
院が京都で組織した北面には京武者が多かったが、安定的な地位ではなかった。京武者の多くは小さい領地を持ち、生活基盤はあったが、朝廷内部では公家が「正社員」とすれば、武士は「非正規雇用」だろう。この公家秩序の外に、武家の自立秩序を作ろうとしたのが、御家人たちに支えられた鎌倉殿である。朝廷への外交、棟梁候補の抹殺、御家人への強制など、時に非情な「政治」を駆使して、やっと武家権力が生み出された。
治承・寿永の内乱が収束したとき、京武者を従えた院、御家人を組織した鎌倉殿という、暴力装置を備えた二つの権力があった。義経、奥州藤原氏など棟梁候補は滅ぼしたが、院の武力が消えたわけではない。京武者を動員する体制は残り、まだ先の話だが、北面は芸能的になっていくものの、後鳥羽院は武士だけの西面を設けて武力を強化した。二つの武力は共存・融合が不可能だった。結局、正面からぶつかったのが承久の乱だった。