明治維新の最大の失敗は、アジア侵略へ向けてスタートしてしまったことだ。
「海禁」を続けてきた維新前からアジア侵略論は現れてくる。最も早いのは佐藤信淵「混同秘策」(文政6年=1823年)だろうが、神国であることを前提に、全世界が日本の領土という「神がかり」的なもので、やや番外編の感がある(日本思想大系45)。少し遅れて成立した頼山陽「日本外史」(文政10=1827年完成)。維新の志士にとって愛読書だったといわれる。武家の歴史を書いた本で、当然豊臣秀吉の朝鮮戦争も書いてある。ただ江戸幕府の眼もあるためか、決して秀吉の行動を称賛しているわけではない。現地で負けた戦闘なども、事実をかなり冷静に記述している。
アジア関係で次に眼を引くのが吉田松陰の書簡である。何通かあるが、ここでは岩波文庫収録の安政2年(1855年)4月のものを引用しよう。「(魯墨とは信義を厚くして争わず)其間を以て国力を養ひ、取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失う所は又土地にて鮮満にて償ふべし」。朝鮮に行く途中にある竹島を支配下に置くことを主張する手紙もある。明治から昭和の歴史を予め指し示している感じがする。
ちょうど同じ頃、橋本左内(松平春嶽の寵臣)が似たようなことを言っている。安政4年(1857年)11月の村田氏寿宛て書簡である。雄藩の総協力による徳川統一政権を説いた有名な手紙だが、中に「(アメリカ、西洋、魯との友好関係のもとで)近国を掠略する事、緊要第一」という。近国には朝鮮が含まれるはずだ。「日本外史」の文政と松陰などの安政の間には、嘉永6年(1853年)の黒船来航がある。この衝撃が日本人を変えたのだろうか。強力な米欧を打ち払う(攘夷=独立維持)ため、橋本左内は、開国は当然という論を展開し、攘夷思想のリーダーのような吉田松陰も鎖国を続けろとはいわない。両人が同じく朝鮮半島を押さえることが、国力を強化し、攘夷につながるとする。幕末の若いインテリは日本の独立が脅かされていると信じていた。独立を維持するためには、朝鮮半島を押さえておきたかった。攘夷(独立確保)とアジア侵略が裏腹一体の関係にあった。何も橋本左内、吉田松陰に限られたことではなく、一種の共通感覚だったのだろう。
明治に入ってからも、基本は「攘夷のための侵略」が続いていた。明治初年10月には有名な書契問題が起きる。江戸幕府(実際は対馬の宗氏)が波風を立てずに過ごしてきた、李朝との関係が政治問題化した。「皇」など李朝にとって宗主国の清朝にしか使えない字が入っている国書を日本が渡そうとして、受け取りを拒否された。清朝の冊封体制を知らないはずがなく、あえてこれを無視した国書を書いた。拒否されるのは想定どおりだったのではないか。それが万国公法=欧米流だという論理であり、この正義が通じないのなら、通じるように朝鮮を作り変えようという発想になる。木戸孝允は明治元年12月の日記で強烈に怒っている。「使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし服さざるときは罪を鳴らして、その土を攻撃し、神州の威を伸張せんことを願ふ」という建白を岩倉に提出したと日記に書いている。維新政府随一のインテリの木戸ですら朝鮮問題に関しては剥き出しのナショナリストである。これらに共通するのは朝鮮の立場に対する同情が全くないことだ。
現実に、明治8(1875年)9月に朝鮮の江華島で日本軍艦雲揚が朝鮮の守備兵と交戦する。日本の挑発が原因であり、最近、やっと事実関係が明らかになった。欧米化を進める大方向は間違いではなかったにしても、アジア軽視への傾斜は、勝海舟などごく一部を除いて、当時の圧倒的多数派だった。これが昭和の悲劇につながった。