神話秩序→主従制→能力主義という組織原理の転換は、一般的な体制用語からすると君主制→貴族制→民主制というのと、表面的にはほぼ等しい。天皇制は単なる君主制ではない、武家は貴族ではない、天皇制が存続していて民主制とはいえないなど様々な議論があろうが、それに深入りはしない。ここでは政体循環論という古い議論を思い出したい。
どの辞書でも政体循環論を引くと、ギリシャのポリュビオスが出てくる。世界史という本の中で君主制→暴君化→貴族制→寡頭政治→民主制→衆愚政治→君主制という循環を定式化した。和訳もある。部分的だが手軽には「原典による歴史学入門」(講談社学術文庫)。ポリュビオスはBC200~BC100くらいの人。ギリシャの経験、ローマの躍進を見ながら考えたらしい。どんな体制でも出発点では前代の悪に立ち向かって成功するが、それが堕落を始め、遂に新体制に取って代わられ、一周して元に戻る。こののちキリスト教では、循環ではなく、一定の方向に進歩していくという歴史観を提出した。
ポリュビオスの議論は実証ではなく理論なのだが、この一部は日本の歴史にも適用可能だ。彼の君主制から民主制までは「進歩」の道筋である。しかし、次に衆愚政治に陥り、強いリーダーを求め、君主制に戻るという点では異論続出だろう。先にあげた「原典による歴史学入門」では「寡頭制の悪を経験したものがいくらか残っているあいだは、彼ら民主主義者は、平等や言論の自由を高く評価する。新しい世代が生まれてきて、創始者の孫の代になると、もっと多くのものを要求し始め、暴力と腕力支配に移行する」。大略、こう彼は言っている。2000年以上前の賢人の議論だが、どこか現実感がある。
さて現実に戻る。日本が民主制であることに異論はないが、これは明治維新による身分制の廃棄、アジア・太平洋戦争の敗北による人権拡大という二段階をへて成立した。しかも、1945年以前の悪を知る敗戦世代の「孫」が社会の中心になっている。ポリュビオスの議論では、「変化」の時期にきていると見られる。確かに「自由と平等を当たり前と思い、大切としない」兆しがないとは言えない。
だからと言って、すぐ「暴力と腕力支配」に移行するとも思えない。仮に移行するにしても、その前に民主制の運営の欠点に苛立ち、再建の努力をする時期もあるはずだ。民主制の世界を支えるのは、能力に応じた人員配置による人民の満足であり、大事なのは人員配置が固定せず、常に最適をめざす運動が途切れないことだ。しかし、一般論でいうほど能力に応じた人材配置は簡単ではない。組織ピラミッドに、学校の成績の上のほうから順番に配置すればいいわけではない。それをしたら組織は動かないだろう。
リーダー選定は互選(選挙、人気投票など)、試験(学校成績、スポーツの実績、芸術作品など)、権力の強制・利益誘導などしか方法はなかろう。どの方法が正しいのかという議論には「時と場合よる」としか答えようがない。大事なのは社会(多くの人々)が、何を目指しているかである。それによってリーダー選びも変わってくる。
そこで困るのは現代の日本社会について、「何をめざすのか」が明確でないことだ。不満はあり、改革意欲はあっても、かつての志士のような、今の生活を放棄するだけの目標が見つからない。幕末の尊王攘夷、明治の富国強兵、戦後の高度成長といった、多くの人々のエネルギーが同じ方向に向かっている状況なら、おのずからリーダーが決まっていく。
1960年代末にGNPが世界二位になって、方向を失いかけた時には、石油危機の克服などで成長志向を維持できた。しかし、80年代のバブルは、若くて高度成長に参加できなかった中年が先輩の真似をしただけの「から騒ぎ」でしかなかった。それ以後は低金利と財政支出で経済水準を維持するのが精一杯だ。政治家でなく小物官僚でも考えつく愚策、目先の利害に動かされたのである。その閉塞的な日常の結果、希望、夢、未来が空々しい三流文学の言葉としてしか響かなくなってしまった。
多くの人たちが方向を失っているときは怖い。その空白に狂信が忍び込む。まるで新しい装いで、古い観念を一部の人が鼓吹する。多くの人たちには、反対も賛成もない。こうなると、ポリュビオスが、「孫」たちが民主制を崩すと定式化した状況に近くなる。
難しいのは「民主的に民主制が崩れていく」のをどう考えるかだ。だが、民主制に代わる公平な制度は考えられない。プラトンのように「哲人政治」というわけにもいかない。民主制は、人権という歯止めはあるものの、ポピュリズムの権力が暴走すると、能力主義の働く領域が狭まる可能性を内包している。最悪なのは、権力者が合法的に仲間を政府など組織内に配置していくことだ。(そうした場合主従制に近い現象が起きる)。こうなると能力主義の働く領域が縮小してしまう。
明治時代には「独立」が達成されたあと、国民が大袈裟に言えば虚脱状態になり、それを埋めるには上品な大正デモクラシーでは求心力不足だった。その空白を埋めたのが結局は、維新を理想化した神がかりの国体思想だった。その優秀さを証明するため、侵略に走った。そして気が付いたら、世界を相手に戦争をしていた苦い過去がある。だから国民から、一生懸命になれる方向性が湧き上がってくるといいのだが、出てくるのは政治・行政からの役人臭いスローガンばかりだ。
ただ、そもそも、富国強兵といった国民的方向性というものが、これからも必要なのだろうか。他国はそれがなくても他国同士で共存しているようだ。戦後しばらく、世界の片隅で静かに平和に暮らそうという指向が一般的だった気がする。「東洋のスイス」と言っていた。本当は、国民がみんなで一方方向に走らなくてもいいのだ。明治から昭和のガムシャラな疾駆のほうが異常な時代だったのかもしれない。無理にある分野で世界一とかを目指せば必ずひずみが出る。軽薄に世界ランキングを気にして、方向性を統一しようとすれば、自由を阻害する可能性がある。能力に応じた活動を可能にする自由こそが最も大事で、人々が変に競争せず、自分なりに仕事に力を入れればいい。「それでは国が持たない」「退嬰的に過ぎる」という批判が出るだろうが、無理はしないほうがいい。