2-16 会津戦争――武士の組織原理の終焉

 幕末、京都では攘夷運動が燃え盛った。開国派と目された人々が襲われるなど、治安が悪化したため、幕府は文久2(1862)年に会津藩主松平容保を京都守護職に任命した。京都所司代という既存組織では手に余るため、新たな組織を加えたのである。会津藩は文字通り、「火中の栗」を拾った。その後、文久3年「八月十八日の政変」、元治1(1864)年「蛤御門の変」など、攘夷派の長州藩を排除する力仕事を、朝廷・幕府に頼まれ、会津藩はやってのけた。いわゆる一会桑政権の一角を占め、傘下の新選組が攘夷派志士を弾圧した池田屋事件を起こしたのは「蛤御門の変」の一か月前である。

 しかし、会津藩が信頼する孝明天皇が慶応2(1866)年12月に急逝し、幕府側には逆風が吹き始める。慶応3年には徳川慶喜の大政奉還、年末の王政復古と続く。会津藩を京都に呼んだ幕府が消滅した。続いて新政府軍vs旧幕府軍の鳥羽伏見の戦いが、偶然起こり、会津藩は旧幕府軍の先鋒を勤めて敗北した。会津に帰国したのち「朝敵」とされ、新政府軍との絶望的な戦いで完敗し、武士は下北半島の斗南藩に移封された。

 会津藩は「貧乏クジ」を引いた。京都守護職として1000名に及ぶ藩士を京都に駐在させたという。この人員の生活、交通の膨大な費用を5年にわたって負担した。幕府は幕領を分けて藩の石高を加増したが、それでも大幅な財政赤字は免れず、重税を課し続けた。貧乏クジは農民も同様だった(事実、会津戦争の敗北直後から領内全域で一揆が続発した)。その犠牲の結果が「征伐」では救いがなさすぎる。

 あとから顧みれば、悲劇を免れる機会はあった。有望だったのは、少なくとも三回。第一回は、発端の文久2年閏6月の守護職受諾の際である。藩内には強い反対論があった。家老西郷頼母の反対論はよく知られている。会津から京都までは遠い、京都事情にも疎い、それでなくとも財政は苦しい、藩主松平容保は病弱。単純に言えば「迷惑」だった。しかし、会津松平家の祖保科正之以来の、「幕府、徳川家と共に歩む」という藩是もあり、容保が前向きだったため、重臣だけでは断りきれなかった。それでも会津藩はことあるごとに「辞職」を検討した。

 その後、明らかな環境の変化があった。蛤御門では協力した薩摩藩が、第一次幕府・長州戦争では、はじめから戦闘意欲が低く、征長軍参謀の薩摩藩士西郷隆盛は早々に長州と妥協した。その後、薩摩藩だけでなく幕府と距離を置く藩が現われるようになる。

 第二回目は慶応3年。孝明天皇死去をうけ、2月12日に松平容保は京都守護職の辞表を幕府に提出した。これに対し、将軍徳川慶喜の意を受けた老中板倉勝静、京都所司代松平定敬が撤回を要求した。4月には朝廷は辞職を承認したが幕府が拒否。結局8月8日に容保が慶喜に説得され、京都にとどまった。一、二回目の事情は、「京都守護職始末」(東洋文庫)に詳しい。しかし、慶応3年は事態が急変する。10月、慶喜の大政奉還である。会津藩は猛反発した。薩摩・土佐藩が主導していると見て。幕府と共に戦うと決断した。戦争勃発を心配して、容保の実兄徳川慶勝(尾張藩前藩主)は10月末には容保の帰国を勧告した。事態が流動的だったため、容保は慶喜と共に京都にとどまった。

 第三回目は慶応4年。西日本を制圧した新政府軍との交渉のときである。攻撃のターゲットになった会津藩に同情して仙台藩、米沢藩が戦争を避けるため、仲介に努めた。会津との話し合いの結果、閏4月12日、会津藩家老「嘆願書」、東北諸藩重臣「副嘆願書」、仙台・米沢藩主「会津藩寛典処分嘆願書」の三通を、奥羽鎮撫総督九条通孝に提出した。それが17日に却下された。内容的には、新政府の要求する藩主謹慎、削封はのむが、「開城」を受け入れなかった。藩主が城外で謹慎する(いずれ開城)ところまでしか譲歩しなかった。全面戦争に突入する以外なくなったのである。

 ここでいう第一、第二の機会は、将軍に従うという選択だった。主従制からすれば正しい。将軍から藩の下級武士まで主従の関係は連続しており、将軍の要求を拒否すれば、藩秩序が崩れかねないのだ。大政奉還により徳川慶喜が将軍でなくなった後には、主従制の縛りはなくなった。朝廷が幕府に大政を再委任する可能性を考えておく必要はあったが、かつて敵視していた反幕勢力が京都に入ってくるのに合わせ、京都を明け渡す選択があってもよかった。そうすれば戊辰戦争から距離を置けたはずだ。

 新政府への抵抗は論理的根拠が弱い。将軍はすでにおらず主従制は根拠にならない。徳川宗家との関係という私的な根拠しかない。徳川宗家から任された地域管理義務を果たすという論理である。その徳川家自体が存続の危機にあるため、説得力は乏しい。

 ここで抵抗するには、新政府ではなく、薩摩権力vs会津松平権力という私的次元の対立に読み替える必要があっただろう。戦国時代の大名同士の戦争と同じだ。私的レベルに置けば、武士として名誉ある行動をするという選択になる。勝ち負けよりも怒り、誇りを表すのを目的とする場合もあろう。ここでは根本に「朝廷・幕府への義務を真剣に果たしてきて、いまさら朝敵とは理不尽な」という怒りがある。負けるのが分かっていても戦うという意思は怒りが支えたのだろう。加えて、武士の時代(主従制、身分・家格制など)が終わったという、絶望感ではないか。実際、新政府を見ると、トップ集団に公家と下級武士が入っている。時代が劇的に変わったのである。

 先にあげた「京都守護職始末」を書いた山川浩の弟健次郎は、明治時代に東大総長になった。会津戦争のときには白虎隊にいた。幼少のため、実戦から籠城組に移され、命拾いした。戊辰戦争で会津人は2500人が死んだという。有為の人々が消えていった。

 この戦争は、その後に起きた、いわゆる「士族の反乱」につながるとも取れる。主従の倫理の中にいる武士からすると、官僚としての軍隊は許しがたいのだろうか。少なくとも「裏切られた」という思いは共通するだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメント

お名前 *

ウェブサイトURL