日本には昔、怨霊が活動していた。怨霊とは非業の最期をとげた人の魂が、恨みに思う人物に祟(たた)るときの、その霊をいう。これが実際に歴史を動かすことがあった。
代表的なのが菅原道真、平将門、崇徳上皇である。菅原道真は右大臣だった899(尚泰4)年に大宰府に流されて、現地で死んだ(903年)。その後、かなり時をへて、930(延長8)年に朝廷の清涼殿に落雷があり死者、怪我人が出た。清浄なはずの空間に「穢れ」が大量に発生した。これは天皇の徳にかかわる、当時としては大変なことであった。「これは道真の怨霊が怒っている」と、受け止められた。
平将門は939(天慶2)年に東国で反乱を起こして、新皇と自称した。この新皇の即位にあたっては、八幡大菩薩の命で菅原道真が位記を書いた。最後は朝廷から派遣された兵により、殺される。そのあと、都へ送られた首を求めて、体が都へ向けて歩き始めた、あるいは体を求めて首が飛んで、東へ戻ってきたなど、様々な伝説を生んだ。
崇徳上皇は1156(保元1)年の保元の乱の負けた側である。敗北後に讃岐に流されて、現地で死んだ。「保元物語」下巻では、「魔縁と成って遺恨を散ぜん」と、「生きながら天狗の姿にならせ給ひける」という姿が描写されている。
このほかにも、奈良時代の729(天平1)年に自害した長屋王。一度は光仁天皇の皇后になったが皇后位を剥奪されたうえ、息子の他戸王とともに幽閉され、775(宝亀6)年4月27日に他戸とともに死去した井上内親王。桓武天皇の弟で謀反を疑われ、785(延暦4)年に讃岐に配流される途中で飢え死にした早良親王。これ以外にも数多い。
こうした怨みを残したままの魂の慰め方は、菅原道真についてはよく知られている。京都・北野に天神として祀って、許してもらった。北野天満宮は、学問の神様として、いまでも信仰を集めている。将門は東京の神田明神、首塚などを始め各地で祀っている。崇徳上皇も、戦った相手の後白河上皇が崇徳の復権を進めた。みな祟りを避けるためである。
しかし、いま上げた代表的な怨霊は、天皇家を中心とした貴族社会のメンバーである。いわば「身内」である。将門にしても、桓武天皇の五代の子孫である。桓武が死去したのが806(延暦25)年であり、将門の死はそれから130年しか経っていない。菅原道真は先祖が、高天原から天孫と一緒に降りてきたことになっている。
桓武天皇のころは東北の征夷戦争が盛んだった。戦争の中で坂上田村麻呂が蝦夷の大将アテルイを捕虜にして京都に帰ってきた。田村麻呂はアテルイと親しくなり助命を主張するが、結局斬殺される。アテルイは怨霊になって当然だがならなかった。朝廷は忘れ去ってしまった。ただ、枚方の牧野公園に「蝦夷塚」が残されてきた。単なる盛り土で、アテルイかどうか真偽は不明だ。民は忘れていなかったのだ。最近、石碑が建てられた。
中世になっても怨霊への恐れは残った。たとえば後鳥羽院の怨霊に対して、鎌倉幕府は鶴岡八幡の奥に若宮を立てた。ごく小さな祠である。これは例外として、源平合戦を境にして、鎮魂の作法が変わったらしい。兵の犠牲者が増え、仏教の影響もあったのだろう。特定個人ではなく、犠牲者全体への鎮魂になっていく。一種の民主化である。14世紀の南北朝時代を描いた「太平記」(巻25、巻27)には有力な怨霊が集まって悪だくみをする場面があるが、話を面白くするための、エピソードという感じである。
特筆されるのは、怨霊への恐れというより、敗者の来世を願うようになることだ。たとえば、朝廷は壇ノ浦で平家とともに死んだ安徳天皇を祀ろうとしているが、恐れを感じているわけではないようだ。むしろ同情が強い。さらに顕著なのは、元寇の死者への対応である。幕府の執権北条時宗は、元の兵士を含めた死者の供養のため、北鎌倉に円覚寺を建てた。開祖は元から来日した禅僧の無学祖元である。この弟子が仙台にある「蒙古碑」を元寇犠牲者の追善のために立てたという説がある(善応寺に建っている、碑文は難読)。
こうした流れは室町時代も続き。藤沢の遊行寺には、有名な「敵御方(みかた)供養塔」が建っている。これは1416(応永23)年に鎌倉公方足利持氏に対し、前関東管領上杉禅秀が反乱を起こした際の犠牲者を弔うためだった。戦場の惨状を知った僧が建てたのだろう。戦いが終われば、敵も味方もない。少しでもみんなの来世の役に立とうと、経を読誦して回向するのが日本の習いだった。しかも、そこには外国人も日本人もなかった。
この伝統を崩したのが明治維新である。江戸時代に戦がなかったため、伝統が途切れたのか。官軍と賊軍を分け、官軍だけを靖国神社に祀る方式にしてしまった。現代人は「死後のことはどうでもいい」ということかもしれないが、それは古き良き日本流ではない。先の太平洋戦争では、日本人も死んだが、アジア、欧米の人たちも死んだ。すべて若い非業の死である。みんなを日本流でいいから、供養しようという話にならないのか。明治以来のナショナリズムにより、日本人は偏狭になり、劣化してしまったのか。悲しむべきことだろう。