2-1 複雑な政治過程をあえて単純化

 「ペリー来航に対して無策・無能な江戸幕府、それに怒った先進的な志士が尊皇攘夷運動を起こし、佐幕派、公武合体という妥協派を打ち破り、幕府を打倒した。新世界へ船出した。政権を手にしたとたん、攘夷を謳っていた連中は、素早く開国派に変わった」。昔、こんなイメージを教えられた。しかし、実際はこんな単純な図式ではない。攘夷運動が直接的に明治政権を作ったわけでもない。明治維新の政治過程はきわめて複雑だ。それをあえて年代的に、流れを単純化してみる。

 第一期はペリー来航(1853年)から始まり井伊大老の暗殺(1861年)まで。海外への対応は幕府の和親条約(1854年)から始まった。下田、函館を寄港地として開放した。次のアメリカの要求は。貿易のための「開港」だった。幕府は日本が欧米に大きく立ち遅れ、開港が避けられないと考えていた。対する天皇は「外国=穢れ」といった感覚でいたため、日米修好通商条約を勅許しなかった。幕府はあきれ、当惑した。心配しつつ無勅許のまま1858年に条約に調印した。これに対し天皇が激怒した。

 「けしからぬ朝廷無視」ととらえた人々は、反幕府の攘夷の同志を増やしていった。幕府に禁止されてきた朝廷への働きかけをするなどに対し、幕府は「安政の大獄」で答えた。それに反発する運動の最大のイベントが「桜田門外の変」(1861年)である。調印の責任者である大老・井伊直弼を水戸浪士たちが白昼堂々と殺害した。開国派の人物、来日した外国人を襲う、「攘夷運動」が勢いを増し、それを抑えきれない幕府の権威は急落した。

 第二期は、航海遠略策を掲げた長州藩の朝廷への働きかけを経て、薩摩藩の島津久光の卒兵上洛・幕府人事改革実現(1862年)まで。思想的には、天皇を中心にした集権国家の形成と雄藩の支援による幕府強化とが争っていた。島津久光は卒兵・上京し、過激な一団を武力で弾圧した(寺田屋事件1862年)のち、勅使とともに江戸まで行った。1000人の藩士を連れての長旅である。久光は朝廷の支持もあり、徳川慶喜、福井藩の松平慶永を幕府幹部に押し込むことに成功した(同年)。幕府の人事独占の一部を崩した。しかし、異例な雄藩の運動は、幕府の弱体化を示し、幕府権威の回復には結び付かなかった。

 第三期。攘夷運動はますます激しさを増した。そうした雰囲気の中、朝廷の圧力で上京した将軍家茂は文久3年(1863年)5月10日を「攘夷実行の日」と定めた。その日、幕府は具体的な行動に出なかったが、長州藩は実際にアメリカ商船を砲撃した。朝廷でも過激な公家が現れ、長洲藩などの攘夷の武士と連携する動きが盛んになった。天皇は自分の意思が朝廷で通らなくなり困ったという。それを打開したのが「文久三年八月十八日の政変」である(1863年)。天皇の意を受けた薩摩藩と会津藩が、長洲藩士・過激公卿を京都から追い出したのである。ここまでは京都の公家、民衆に支持された攘夷派の強い長州藩が台風の目だったが、一挙に暴力を嫌う孝明天皇が巻き返したのである。

 この後、朝議に参加する、有力藩主による参預会議が試みられた(1864年春)が、内部対立で機能を果たせず、すぐに解消した。その結果、徳川慶喜(一橋)・松平容保(会津藩)・松平定敬(桑名藩)の、一会桑政権へ進んで行く。長州藩が朝廷から排除されたため、以降は改革運動の中心が薩摩に変わる。いわば維新運動の前半が終わったのである。

 しかし、すぐに後半が始まったわけではない。一会桑政権が安定する前に、長州藩は1864年7月に反撃する。「蛤御門の変」である。「君側の奸」(特に会津の松平容保)を討つために、藩をあげて御所の警護陣を攻撃した。天皇が怒った。長洲藩そのものが「朝敵」となり、京都に入れなくなった。幕府は長州懲罰のため第一次幕長戦争を起こしたが、西郷隆盛・勝海舟などの努力で大規模戦闘にはならなかった(解兵は64年12月)。

 第四期は、「一会桑」政権の時代である。蛤御門の変から徳川慶喜の将軍就任(1866年12月)まで。志士の尊皇攘夷運動が表舞台から後退する。海外勢を横目に見ながら、朝廷・幕府の対立の間を一会桑は泳いでいく。京都の徳川慶喜は朝廷と連携し、「朝敵」長州藩打倒を図る。しかし、第二次幕長戦争は、有力大名の支持を得られなかった。薩摩、土佐など有力藩は、藩を越えた「連立政権」実現へ向け水面下での動きを加速する。徳川慶喜が将軍になり(1866年12月)、彼を信任する孝明天皇の下で、朝廷の開国路線への転換という難題に取り組もうとする矢先、孝明天皇が急逝した。

 第五期は、徳川幕府の廃絶=王政復古(1867年12月)まで。諸侯は連立政権=公儀政体派(徳川家も大名として政治参画)が力をつけてくる。幕府は当然、独自の存続をめざす。倒幕派はごく少数だった。慶喜は兵庫開港など対外関係の懸案を解決するとともに、軍制改革などトップダウンで幕府の改革に走る。しかし、慶喜には幕府内でも反対が多く孤立していく。慶喜は幕府の再生を諦め、大方の予想に反して大胆にも、大政奉還に踏み切る(1867年10月)。

 返された朝廷に政府を運営する能力はなかった。倒幕を推進した側にも、新政府組織についてコンセンサスはなかった。そうした中で大久保・西郷・岩倉などによる王政復古が実現した。幕府・朝廷の廃絶というラディカルな革命である。天皇を味方につけた過激派のマキャベリズムが勝った。新政府に徳川を入れない大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視などの派と、徳川を入れる山内容堂・松平春嶽などの派との対立があり、巨大で実務能力のある幕府機構を持つ、徳川家を参加させる派が多数になりつつあった。そのとき薩摩藩の挑発にのって戊辰戦争が起こり、徳川排除派の思惑通り、徳川家を「朝敵」に追い込んだ。孝明天皇の急逝、戊辰戦争の勃発は偶然のことである。維新政権は「必然」ではなかった。

 尊皇攘夷運動は明治政権成立の大きな条件を用意した。しかし、王政復古のスローガンとは逆に、公家の世界には戻れない。大久保たち、身分制を排する近代化指向の過激派が権力を握った。武家の世界を越えた近代集権国家以外に行く先はなかったのである。華族制度が新設されたとはいえ、維新にかけた公家の期待は裏切られた。

 大久保たちのラディカリズムは思想的には当時の多数派ではないだろう。したがって公家・神官などとの妥協の上に制度を作った。維新は天皇の一元支配、神道復活という古代への回帰、諸侯の連立政権をつくるような外見を維持しつつ、実際には諸侯どころか武士・公家の消滅した世界へ進んだ。開国路線も揺るがず、攘夷を信じた人々を容赦なく切り捨てた。この到達点に対する信念、実現する手腕、確かに凄いと言わざるをえない。

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