幕末に自発的なグループを形成した、攘夷のテロリストたちは、忠誠の対象を藩主から天皇に移し、個人の信念に殉じた。しかし、中央で政治変革の真剣勝負をした人々は脱藩をしない組織人であった。その行動は決して個人的なものではなく、組織を抜きにして人物評価はできない。それでも、幕末という時期は様々な人間の姿を教えてくれる。
島津久光は兄の島津斉彬が描いた、雄藩が協力して幕府を支える体制を一貫して追求した。斉彬は積極的な投資による殖産興業を同時併行し、強兵政策も進めた。同時に守旧派の反発も買った。斉彬は安政5年(1858年)7月に急逝した。暑い日で、赤痢だったらしい(毒殺説もある)。西郷隆盛は斉彬の寵臣であり、西郷は斉彬を最大限尊敬していた。
しかし、この島津久光と西郷はなぜかうまくいかなかった。西郷の二回目の島流しは久光の命令を無視して動いたためだし、その前に西郷は久光に暴言を浴びせている。初めから波長が合わず、維新が公儀政体論を越えて、幕府の消滅に至ったとき、久光は藩士たちに「だまされた」と思って当然である。だが、同じ薩摩藩士で西郷以上に維新を主導した大久保利通には、それほどきつく当たっていない。久光の不満は多く、西郷に向けられた。西郷も「斉彬の構想を裏切った」と後ろめたく思っていたらしい。
さて久光の中央政界への登場は、文久2年(1862年)4月の卒兵上京である。「攘夷運動の騒乱を静めるように」と、天皇も入京を要請した。京都では攘夷過激派を弾圧する寺田屋事件を強行した。京都からは勅使とともに江戸まで行った。そこで幕府への要求は、一種の「民主化」「独占打破」要求である。その結果、徳川慶喜は将軍後見職、松平慶永(福井藩)は政治総裁職についた。親戚だからこそ言えた。13代将軍家定の夫人篤姫は島津一族の出身で、斉彬の養女から公家の近衛家の養女分になって、徳川家へ輿入れした。徳川と島津とは主従関係とは次元の異なる親戚なのである。
次の文久3年(1863年)3月に朝廷に求められて再び上京したが、この時は国元で薩英戦争を控え、攘夷派の手に余る跳梁などから滞在足掛け5日で帰国した。次の上京は同年10月。八月十八日の政変(攘夷派の長州藩を京都から追い出し、一部公卿も長州藩に同行)の後の参預会議へ参加するためだ。この参預会議の時期に西郷は島流しを許され(元治元年=1864年2月)、政界に復帰する。
徳川慶喜は、朝廷が要望する横浜鎖港をめざす立場に立ち、他の参与と対立する。できないのは分かっていても、こうしたポーズをとった。会議はまとまらず薩摩からの上京は完全にムダ足である。久光は怒ったはずだが、慶喜は意に介さなかったらしい。雄藩との協力関係を事実上拒否し、参預会議は1864年3月には解体した。
このあと京都では「一会桑」が形成された。孝明天皇の信頼を得た慶喜が会津・桑名両藩を従えた体制である。この政権下で元治元(1864)年7月に蛤御門の変が起きた。慶喜も西郷も戦場に立って長州藩に対して防戦した。一瞬だが西郷と慶喜は戦友だった。このあとは長州処分の戦争準備が始まり、西郷は征長総督府参謀になる。しかし、開戦寸前に勝海舟と初めて会い(同年9月11日)、勝から幕府のひどい内情を打ち明けられた。勝は改革をするなら、幕府を相手にしてはいけない、「共和政治」(雄藩連合)が必要というのだ。有名な西郷の手紙が残っている。「ひどく(勝に)ほれ申し候」という元治元年9月16日付け大久保利通宛ての手紙だ。
そうならば長州を叩きつぶすのは間違いだ。幕府抜きの政体を作ることが目標になる。倒幕に近づいたのである。しかし、久光は雄藩が幕府を支える路線から外れることを許さない。鹿児島から薩摩藩士・西郷たちを監視していた。久光は慶応3年(1867年)4月の四侯会議を主唱して、兵庫開港・長州寛大処分を実現しようとした。しかし、会議は進まず、将軍慶喜が単独で朝廷から勅許を得て、解決してしまった。公儀政体をあくまで拒否する意思表示である。これ以降、久光も公儀政体を主張しにくくなる。当時、西郷たちは久光への連絡は佐幕的文言にしていたらしい。実際には討幕をめざしていた。久光を「だました」。明治になっても久光の怒りが収まらないのも、分かるような気がする。
一方、慶喜は、政局ではことごとく幕府有利なように問題を片づけていった。駆け引きに関しては、抜群の巧みさである。頼みの孝明天皇が急逝したのちも、幕府存続に向け主導権を握り続けた。幕朝間の懸案を解消し、軍制を含む幕政改革を急ぐなど、幕府を守るための慶喜の行動には、鬼気迫るものがある。しかし、軍制改革も、幕府軍制の外に近代軍を作る形で、幕府そのものは変われない。とても未来の展望が開けなかったのである。
そうした中で徳川家の存続を考えて、敗北宣言をした。これが大政奉還である。大政奉還をして朝廷から再委任されるのを狙ったなど、様々な説があるが、英明を謳われた慶喜には幕府の未来が「見えた」のである。あれだけ粘りのある人物が、前もって王政復古の小御所会議を知らされていても何の手も打っていない。戊辰戦争でも初めから諦めた。
西郷は戊辰戦争に勝ったのち、鹿児島に帰ってしまう。分からない行動である。「おれはここまで」ということである。戦の勝利の空しさか。戦の中で人間そのものに諦めを感じたのかもしれない。三人三様の異なった生き様である。