2-11  富国強兵の呪縛

 日本は欧米の圧力の中で、独立を守った。誇りを持って、よく言われる言葉だ。本当に独立の危機に瀕していたかは議論があるが、当時のエリートが強い危機感を持っていたのは事実だ。戊辰戦争の勝利を決め、次の「万国対峙」体制の基本が、「富国強兵」である。この強兵のため、政府は国民軍を作ろうとした。錦の御旗を掲げて戦った戊辰戦争でも、官軍の実態は長州・薩摩・土佐などの藩兵であり、彼らが手分けして戦った。旧藩の武士同士の戦いだった。農工商は実戦には加わらなかった。

 

 政府内では早くから身分を超えた徴兵制の議論があった。実際、近代戦での武士は、上官の家格の高低を気にするなど、扱いがひどく困難だったという。もっと「素直な」兵隊が欲しかったのである。徴兵制は武の専門家を自任する武士にとって、自分の存在意義を失わせるものだったため、反対論が強かった。事実、徴兵制を主張してきた兵部大輔大村益次郎は、反対派の武士に1869(明治2)年11月に暗殺された。

 政府内部の議論では、保守派は徴兵に反対し、一部は武士中心の志願兵制度を主張した。しかし、近代兵器は武士の個人プレイを必要とはせず、訓練が行き届いた、規律正しい兵隊を必要とした。技術進歩がかつての武士の出番を消した。結局は山県有朋などの主張が通り1872(明治5)年12月に徴兵の詔、73(明治6)1月に徴兵令(太政官布告)が出され、近代にふさわしい強兵のスタートラインに立った。

 この徴兵制の議論の期間は、71(明治4)年11月から73(明治6)年9月までの「留守政府」の時期にあたる。廃藩置県を71年7月に断行して、巨大な懸案を片付けた後、海外視察を兼ねて出発した岩倉使節団では、当初目標の不平等条約改正交渉を諦め、岩倉・大久保・木戸・伊藤がじっくり欧米の政治制度、経済政策(富国)、社会情勢を調査した。政府を主導する大久保が帰国するのは、他のメンバーより早く73年5月。それでも徴兵令が出た後なのである。軍をリードする西郷・山県が国内に残り、強兵策について先行して作業を進めたのである。

 この徴兵令では、「家」制度を守るため、さまざまな免役規定があり、徴兵逃れが横行した。しかし、農工商が戦士になるのは、身分制を廃した以上不思議ではないが、実際には画期的な変化だった。軍人のベースを広げることは「強兵」のために必要だった。当時の軍は外征ではなく、国内争乱に対処するためのものだった。特権を失い、職も失いそうな武士、先行き不安の農民などの一揆で、社会が騒然としている時期だった。

 1873(明治6)年10月の征韓論政変を終えたころから、軍は外向きに動き出す。ただ、まだ人材不足が続いた。74年5月には台湾出兵が行われたが、薩摩武士を大規模に補充したうえで行われた。続いて75年9月には朝鮮で江華島事件を引き起こすが、これは一般の兵士が当事者ではなかった。77(明治10)年の西南戦争は、旧武士の精鋭に対し農工商の軍隊が勝った。徴兵軍は自信をつけた。武士の「百姓を集めて戦力になるのか」という批判は、実績により否定されていった。逆に言うと、武威を輝かすといった武士の指向が、農工商の軍隊にも浸透し始めたのである。

 

 古い話だが、徳川家康は秀吉の朝鮮出兵(本当の狙いは明の征服だった)の後始末に苦労した。明との国交を開き、海外関係を安定させようと、手を尽くしてアプローチしたが、明はついに不信感から受け入れなかった。江戸幕府は対外関係の「恐さ」を知らされたのである。これが維新後はガラリと変わった。強兵路線は加速し、日清戦争を皮切りに、対外戦争の連続だった。勝ち続けたはいいが、この武力行使には歯止めがなかった。

 幕末には「攘夷」を主張しない者はいなかったといえる。攘夷は「国内の外人を殺す事」「国内に外人を入れない事」「鎖国に戻る事」「世界で欧米に対抗する事」など多様な意味で語られた。直接行動を避ける向きも、「将来力が付いたら世界に乗り出す」という論理だった。鎖国に戻ろうという論は皆無に近かった。そして、明治政府の政策決定にあたったのは旧武士であり、当然というべきか、対外危機克服のため世界で戦うことを選択した。

 

 そうした目で「五箇条の御誓文」はじめ維新期の文書を改めて読むと、民主主義、自由主義的な言葉はあるが、「平和」あるいはそれに類似した文言は目につかない。探せばあるのだろうがきわめて少ないと思う。当時、平和は求心力のある言葉ではなかった。そもそも自国の建設・存続で精一杯だったのだ。しかし、当時にあって、一般とニュアンスの異なる理想を述べている人物がいた。横井小楠である。熊本の人で、松平春嶽に請われて福井藩政に関わった。アメリカのワシントン初代大統領を尊敬し、勝海舟などとも付き合いがあった。維新後は政府に招かれ参与になった。しかし、キリスト教を普及させようとしていると誤解され、1869(明治2)年1月に京都で暗殺されてしまった。

 その横井小楠が、甥がアメリカ留学するときに激励を込めて与えた漢詩がある。1866(慶応2)年のことだ。「何ぞ富国にとどまらん 何ぞ強兵にとどまらん 大義を四海に布かんのみ」。富国強兵にとどまるのではなく、大義を世界に発信しろ、という意味だろう。この大義とは彼の場合、中国の伝説の聖人君主「堯舜三代の道」、つまり儒教の究極を指し、これに「平和」が含まれると、ある中国人研究者はいう。明治維新以前に、横井小楠は次の時代が富国強兵にとどまる危険性に気付いていたのではないか。いまでも明治を顕彰するため、富国強兵を例にして、「維新の精神」といって、大変立派なことのように語られることがあるが、明治に呪縛されているのだ。横井小楠が聞いたら、きっと苦笑するに違いない。それとも相変わらず「強兵」に傾きがちな世界を悲しむか。

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