2-12 異形の明治国家

 戊辰戦争のとき、政府軍が江戸にはいり、勝海舟と西郷隆盛が会談した。この有名なイベントが行われた慶応4(1868)年3月13日、政府はもうひとつの重要な布告を発している。「祭政一致、神祇官再興」である。明治政府のそれからを象徴する出来事と言っていい。武家が徳川幕府を相手に苦労をしているとき、公家側は「王政復古」の実現へ向け、着々と制度を固めていた。神祇官とは朝廷の祭祀(たとえば大嘗祭などの神事)を行う組織を指す。はるか昔の律令に規定されていた官職である。

 続いて3月14日は「五箇条の御誓文」、15日が「五榜の掲示」(この中にキリシタン禁制が入っている)、17日には神仏分離令である。次々と重要な宗教政策が発表されている。まさに「復古」である。神祇官が消えた南北朝(14世紀)以前、つまり500年前に戻そうというのだ。こうした「反動」の一方で、御誓文には「旧来の陋習を破り」「智識を世界に求め」という進取の精神が謳われている。神祇官は旧来の陋習ではないのである。

 こうした動きに先立ち、1月11には神戸事件、2月15日には堺事件が起きている。いずれも武士が外国人を殺傷した。「攘夷をできない幕府に代わって、新政府ができたのだから、攘夷=外国人殺傷は許される」という短絡的な誤解行動が現れた。両事件に対し、政府は外国に平謝り。犯人には切腹を命令し、対外信用維持に努めた。

 何しろ政権が転がり込んできたため、混乱は避けられなかった。政府の組織も次々と変わった。最初は太政官の下に三権を収め。行政権の筆頭に神祇官を置いた。版籍奉還(明治2年6月)ののちには、神祇官と太政官が、並び立つ組織に変えた。明治2(1869)年7月のことだ。そして廃藩置県(明治4年)ののちには、太政官の下に神祇省が位置づけられた。政府組織の中で神祇の地位を低下させる前に、明治3(1870)年1月3日には「大教宣布」の詔が出され、天皇崇拝思想の社会的な普及を命じたのである。

 宗教に関して、キリスト教禁止は当然欧米の評判が非常に悪かった。「海外和親」を掲げている政府の政策矛盾である。そこで明治6(1873)年にキリスト教禁止を謳った掲示を撤廃した。もっとも禁制維持の意見は多く、たとえば岩倉具視は撤廃反対だった。

 明治政府は戊辰戦争に勝ったとはいえ、その正統性は天皇に命令されたという一点に依っている。その天皇を動かしているのは、岩倉具視、三条実美など公家グループである。したがって、欧米の目を気にしながら、欧米に追い付こうというグループとは政策矛盾がある。しかし、木戸・大久保など開明派は、維新以前には少数派だった。多数派は徳川慶喜を含む有力大名の連合政権派だった。その少数派が「たまたま」戊辰戦争が起こったため、政府の中心についた。当然、妥協を重ねないと「万国対峙のための開明政策」が実現できない。このため政策だけ見ると、主流派は天皇直結の公家グループだったと見えてしまう。公家グループの要求は拒めない。明治維新というと、木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛・徳川慶喜などの武士の動きを中心に描かれるが、出来上がった政府を見ると、天皇周辺の公家グループの政治過程へのかかわり方は、想像以上に濃密だったのかもしれない。

 事態が本格的に動き出すのは、岩倉使節団が明治4(1871)年11月から欧米を歴訪し、明治6(1873)年夏~秋に帰国してからである。欧米社会を実地で眺め、有力政治家に会見し、さらに工場を見学するなど充実した旅だった。これを踏まえて、次の政策は二つに絞られていく。木戸を中心とした立憲政体実現、大久保を中心とする工業化、経済である。工業化ではすでに明治3(1870)年に工部省が設置されていたが、それに代わって新設した内務省のトップに大久保が就き、工業化へ走る。この分野は資本投下とそのリターンという冷厳な損益が焦点になる。神仏とは無縁だ。

 この時期の企業プロジェクトは総じて失敗だった。経験もなく、武士が主導したのだから、当然の結果だろう。しかし、起業に挑戦して、合理的な思考に慣れるのは、官民にとってプラスである。後に企業は民間に移管し、官がインフラに移行するのも合理的だ。

 立憲制度は、条約改正の条件作りでもあった。欧米の近代国家は、政教分離が原則のため、国が神祇官を置いて宗教を主導するわけにはいかなかった。神祇部門の政府内の地位を低下させたのも、欧米をにらんだためだろう。ここで一種の詭弁が登場した。神道は宗教ではないという強弁である。(のちの大日本帝国憲法でも神祇については御告文を除き全く言及していない)。朝廷の祭祀と既存の神社を一つのシステムとして再編し(国家神道と呼ばれる)、それへ国民は当然参加するが、個人の宗教選択は自由という論理である。「祭政一致」と「政教分離」を矛盾なく両立させる、薄氷を踏むような論理である。

 この国家神道の普及を強力に推進したのが、明治24(1889)年の「教育勅語」である。1980年代ころまで、酔って「教育勅語」を唱えてみせるオジサンがいた。小学校で暗唱させられ、幼い白紙の頭脳に染みこんだのである。

 しかし、天皇を崇拝しながら、自身の信仰を持つのは、二重思考である。口で言うほど易しくはなかろう。しかも、エリートはさらに西欧流の合理主義思考をする必要があった。自分の中で相矛盾する思考を同時に行うのは、かなりの緊張感を伴うはずだ。それでも経済は発展していった。西洋の技術を貪欲に吸収し、合理的思考を駆使して、多くの企業が活動を始めた。学問、芸術でも西洋から学ぶことは山ほどあった。

 こう見てくると、明治時代というのは歴史像を理解するのが大変難しい。異なる原則を持った複数の社会が共存していたようだ。文明開化と、律令時代の価値体系が併存していたのだ。一方から見れば古代国家、もう一方から見れば近代国家だ。これは異形だろう。欧米人には理解不能に違いない。したがって、この二つの国家像は融合せず、裂け目が広がる危険性を内蔵していたのである。

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