1-12 新しい時代区分――組織原理の日本通史

 組織原理といっても、政治組織とくに権力中枢を考える。権力のトップがなぜトップにいるのか。その根拠が、体制のエリートの作り方、選び方を規定する。権力は徴税、戦力動員の二点で強制力を持つ。それに合わせて、社会的勢力は自らを組織する。この組織原理の変化は社会を根底から変える。それに逆らう運動はこれまですべて失敗してきた。

(Ⅰ)神話秩序の前史 (~712年)
 712年は古事記成立の年であり、天孫降臨という天皇家の神話が文書に現れた。それ以前、特にいわゆる大化前代は社会制度すらよく分からないことが多い。史料で確かめられるスタートは邪馬台国だろう。魏志によると、卑弥呼は巫女であり、神の意思を探り当て、一般に伝えて政治的な統合を果たしていた。3世紀前半のことらしい。

 その後、5世紀後半の雄略天皇時代、朝廷に「ヒト制」と呼ばれる組織があったらしい。478年の倭王武(雄略天皇)の上表文を見ても、巫女体制から確実に転換しているが、雄略天皇は専制君主であり「神の子孫」の面影はない。記紀は邪馬台国にふれていない。開闢以来、天皇家の支配が続いた(万世一系)という立場から、卑弥呼を無視している。

 古代の政治的な画期は645年の乙巳の変である。ヤマトに統一政権ができた。しかし、組織の原理転換とまではいえない。戦国大名たちが徳川家に臣従したのと似ている。

 646年に出されたという改新の詔では「税を朝廷に集中しろ」と命じている。中大兄皇子自身が、「自分が徴税した分は朝廷に渡す」といっている。逆にいえば、改新以前は各豪族(王)が独自に徴税していた。当然、各豪族は武力も持っていた。ヤマトなどの豪族が国土を分割する形で、結果として全体を支配していたのだろう。

 乙巳の変から60年以上たって古事記が編纂された。大王は天皇と称号を変え、神の子孫であると宣言した。乙巳の変以前に、天皇家は神話を徐々に形成し、すでに天孫思想を持っていたのかもしれない(各豪族も独自の神話を形成していた可能性がある)。しかし、神話原理への移行を示す指標として、古事記以外には見当たらない。

 つまり、厳密には天皇=神の子孫に基づいた組織原理がいつ生まれたのかは分からない。中国への対抗を意識し、国内の中心勢力の永続化、序列化を狙って、天孫神話を乙巳の変後に構築した可能性もあり、そうであれば712年が神話秩序のスタート時点といえる。

(Ⅱ)神話秩序の時代 (712~1180年)
 古事記の神話は中央・地方の豪族を、高天原、国津神などの概念を使って、壮大な神話秩序の中に位置付けた。ただ、豪族層すべてを網羅したわけではないらしい。各地に被葬者の推定できない古墳が数多く残っている。後進地域とされる東国でも中から鉄器が出てくる古墳がある。各地はかなり分散的、均等的に発展してきたのだろう。

 新統一政権は詔ひとつで集権的徴税が実現できたわけではない。クーデタの後もいくつかの戦争を必要とした。それを支えたのは武力だけではない。天皇=神の子孫という思想が超越的地位の創造・維持に役立ったのだろう。神に由来する王権グループvs人民という構図は、現実の貧富の差が隔絶的になっていたことを推測させる。

 天皇のもとに武力を集め、政務は律令官人が担った。徴税作業は現地の有力者を組織化した。神話と官僚制の組み合わせは傑作だった。藤原不比等らが基礎を作り、京都に遷都した桓武天皇以降は朝廷の制度を細かく整備していった。道教、儒教、仏教など「先進思想」を取り込んだ、この政権は鎌倉殿成立(1180年)まで、国内で唯一の政権として存続した。奈良・京都で500年近く続いた、日本史上最強・最長の安定政権である。

 蝦夷戦争に代表される、統治地域の拡大は、狭い地域を統治対象としたヤマト朝廷と比べ、全く環境が変わったことを意味した。しかし、それに対応した組織原理転換も、朝廷制度の変革・拡大も基本的にはなされなかった。自前の武力の充実を避け、人員不足を補う外部への委託は新たな問題を生み出した。地方の独立的権力が育っていったのである。

 とくに平将門の反乱(939年)は、新皇を自称することで東国の独自性を主張した。京都の朝廷はショックを受けた。しかし、将門の「朝廷」は京都のそれのコピーを試みただけで、新たな種類の組織は構想しなかった。

 政治変化としては院政(11世紀後半)が上げられるが、天皇家の内部の運営が変わっただけで、組織原理は変わっていない。保元・平治の乱も「武士の台頭」と言い切れるのだろうか。武士はついに朝廷秩序の中に居場所を見つけられなかった。いくら天皇につながる系図を作っても、あくまで神話と無関係な「外部の奉仕者」だった。初の武家政権である平清盛の「平氏政権」も、朝廷内に一時的な地位を得たにすぎない。

(Ⅲ)神話制vs主従制(1180~1392年)
神話以外の組織原理は、鎌倉殿の成立(1180年)とともに生まれた。源頼朝の挙兵は伊豆国目代(国司代理、この時は平家が任命)襲撃から始まった。朝廷への反逆である。朝廷制度への反逆ではなく、朝廷を動かしている平家を敵とした。そして各地で平家を攻撃する武士が結集して、頼朝を鎌倉殿(武家の棟梁)に担ぎ上げたという。

 当初、そのネットワークは小さかった。朝廷からすれば、鎌倉殿は前例のある奉仕者の一人にすぎなかった。しかし、朝廷の外に初めて自律・独立的な持続する権力組織が現れた。鎌倉殿と家人(武士)の主従関係が組織の基礎である。「家(一族)」を単位とした、この組織の強みは地方の現場を掌握していることだ。自力で徴税し、地域秩序を守れた。

 この組織を朝廷が認めた。地方での徴税のためである。この時、二重権力が出現した。武士は土地支配に関しては、朝廷ではなく鎌倉殿への忠誠を優先した。こうした朝廷の命令を聞かない組織の消滅を朝廷は一貫して追求した。武士が土地支配の拡大を図る数多くの小競り合いが起きた。その根本的衝突が承久の乱、建武新政、南北朝争乱である。戦争の間の「平和」のとき、公武は協力して支配したわけではない。対立は続いていた。

 公武の対立状態が崩れたのが、将軍足利義満による南北朝合一(1392年)である。鎌倉殿成立から約200年。南朝を支える武家が衰退した。1391年に明徳の乱がおきた。足利幕府vs山名氏の紛争に関し、南朝は山名氏に錦の御旗を与えた。しかし、戦況に変化はなく幕府が勝った。武家内部の紛争に天皇の影響力が及ばなくなった。

 その結果、南北朝合一の条件として、南北天皇家から交代で天皇を出すという約束がなされたが、それも無視され、足利幕府に擁立された北朝が存続し現在に至る。武士に命令して武力を行使する天皇制は消えた。天皇制は武家の権威の源泉として生き残った。

 よく義満は皇位まで狙ったといわれる。子息を皇位に就けようとしたように見えるが、仮にそうなってもうまくいっただろうか。武家政権と朝廷は拠って立つ原理が水と油である。個別に土地支配拡大を進める武士、それを阻止する公家という対立構造。公家化する義満が急逝したとき、武士たちは土地支配拡大にとってプラスと密かに喜んだに違いない。

(Ⅳ)武家優位の世界(1392~1867年)
 武家優位の世といっても、二重権力状態は消えなかった。朝廷は古代以来の律令に基づく組織を維持した。その徴税力は急速な低下を続けたが、武力での興廃が避けられない武家は、自分の家の維持に朝廷が役立つと判断したのだろう。時代は飛ぶが、徳川慶喜が行った幕末の大政奉還は、朝臣になることで徳川家の存続を図ったのだ。

 武家優位が確実になると、武家同士の争いが激しさを増した。古代以来の伝統を持つ「貴種」は統合力を失った。武家の覇権争いは、徳川家による統一まで200年続いた。すべての武家は家臣を主従制で固め、領国の経済力を高めようとした。最も大きい武家の同盟を作った側が勝った。その後、徳川家の支配が250年ばかり。官僚制は精緻化したが、組織原理に変化はなかった。その安定性は、幕府の政策転換にとって足かせでもあった。

 長い武家優位体制が幕末に動揺した。西欧の衝撃に対して、天皇中心の権力一元化を求める政治運動が起きた。ナショナリズム。体制の中に、異質の原理を持つ組織(潜在的な反体制)を存続させたリスクが顕在化した。尊王攘夷運動に対して守勢に回った幕府は、それを超える原理を提出できなかった。幕府は家格に基づく世襲制を放棄できなかった。

(Ⅴ)身分が消えた時代1(1867~1945)
 伝統に縛られた朝廷が権力を握っても、国際関係を打開する政策を打ち出せないと判断した、一群の若者が、権力の奪取に成功した。大久保利通・岩倉具視などだ。開明的と言われていた有志大名の連合政体構想を乗り越え、幕府・朝廷とも一挙に解体した。神話制・主従制の組織原理を廃棄した。身分制の解消という、有史以来の大改革を成しとげた。

 権力の中枢はいわゆる維新の功臣が占め、エリートの選考は身分(「家」)ではなく、「個人」の総合的な能力を基準にした。組織原理の大変革である。旧大名・公家などは新設の華族として社会的経済的地位は維持したが、社会の激しい変化の中で、主導権は失った。

 この時の組織原理は、家格を離れた適材適所の試みである。新政府に新しい仕事が現れた際、自薦・他薦の人物を試みに就けて、実績が上がらなければ即クビという、乱暴な人事も行われた。新たな職業も競争を通じて生き残る者が決まった。こうした実力主義は全員を幸せしたわけではないが、開国にともなう新知識の摂取、海外渡航などにより、人々は能力開花の機会を追求できるようになった。

 身分制が唯一残ったのが天皇である。明治憲法は制度的には親政(一君万民)の形で作られた。「神の子孫」が統合のために必要と、維新の元勲たちが考えた。ただ天皇は統合機能だけでなく、具体的な執行機能を持った。軍に対する統帥権である。ここには臣下は口を差し挟めない。実力主義と神話の不自然な合体である。天皇個人を超えた、絶対者としての天皇シンボルは、一種の宗教になった。それが外交を曲げた。

 昭和の戦前に至るまで、軍人は天皇に会うと畏まっていた。しかし、宮中を出て政府に戻ると、天皇の意向とは別に政府方針を決めていった。「君臨すれども統治せず」のイギリス型運営と天皇親政制度とは、初めから矛盾を内包していた。それ以上に言えるのは、神話教育に熱心で、憲法教育がないに等しかった文化政策の欠陥である。

 昭和の戦前、絶対者の持つ統帥権を、その実働機関である軍が手にいれた。こうなると構造的に外部から軍を制御できない。能力主義(試験)で選ばれた軍隊が、神話的絶対権を乗っ取った。だから日米開戦の際、平和維持を望む生身の天皇は、神の子孫を信奉する「好戦的天皇主義者」に負けたのである。天皇の敗北は、維新体制の終焉を意味した。

 それ以前に、石原莞爾氏たちが満州事変を起こした(1931年)。どう見ても統帥権干犯なのだが、憲法規定、天皇の意向を軍当局が実行できなかった。逆に石原は天才、英雄とたたえられた。明治憲法は完全に無視された。敗戦(1945年)後、近衛文麿元首相が自殺した。天皇家とともに歩んできた藤原氏の正嫡が、天皇を置き去りにした。古代以来の神話的天皇制の終焉を宣言したのである。

(Ⅵ)身分が消えた時代2(1945~現在)
 戦争に負けて、憲法を変えた。主権が天皇から国民に移った。軍も消え、絶対者がいなくなった。長期にわたる価値観の多様化が始まった。旧来の権威は崩れていき、エリート選抜の道はさらに広がったが、その後適材適所をめざす能力主義がなかなか貫徹しない。

 世襲によるエリートがいまでも多い。既得権保持へ競争を避けたくなり、様々な場面で能力以外の経済関係、人的な親疎が幅を利かせている。決定過程へ参加する人数を減らし、インナーサークルを作りたがる権力の傾向も変わっていない。

 一口に能力といっても、人が人を評価するのは大変難しい。ことに投票でリーダーを選ぶとなれば、身近な人間でないだけに、難しさを増す。権力者がマスコミ操作により自己を美化する一方で、人々を脅す、おだてる、利益誘導するなど判断を曇らす要素は数多い。

 価値観の多様化に対して、共通の価値として重みを増したのが、経済的価値だろう。冷戦を背景とした国内対立を超えようと、1960年代に高度経済成長による「豊かさ」が計画されて以降、同じことが繰り返されている。財政によるバラまきは常態と化した。

 しかし、日本経済は世界的に見れば、追いつく側から追いつかれる側に変わった。旧来型の経済による統合に限界がいずれ来る。経済の餌を撒き続けたあとに、政治家(ブレーンの学者などを含め)は何をアピールして権力を追求するのだろうか。確実に権力トップを選ぶ指標が現在とは変わっているはずである。

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