1-5 摂関政治のもう一つの見方

 平安時代の9世紀。摂関政治に先行して藤原氏の「他氏排斥」が始まる。

 排除された人物を年代順に列挙する。承和の変(842年)伴健岑・橘逸勢、応天門の変(866年)伴善男=大納言、昌㤗の変(901年)菅原道真=右大臣、安和の変(969年)源高明=左大臣。長期にわたって、実に執念深い。

 この過程で藤原氏は朝廷の要職を独占していく。初めて摂政(人臣摂政)に就いたのは、藤原基経である(876年)。9歳の陽成天皇を補佐するためである。関白の語も、宇多天皇の藤原基経に対する詔の中に現れる。もっとも、この段階では「関(あずか)り白(もう)す」と、動詞として使っている。この陽成天皇のとき、事件が起きた。同天皇の側近が宮中で殴殺されたのだ。「日本三代実録」には、犯人は分からないと書いてあるが、そのあとで藤原基経が陽成天皇を廃したらしい。藤原氏は天皇を動かす力を持ってきたのである。

 「他氏排斥」はどれも冤罪のような怪しい事件だが、中でも菅原道真を大宰府へ左遷した人事(901年1月)は、理由がさっぱり分からない。道真はわずか二か月前に従二位に昇進したばかりだった。長女を入内させたとはいえ、藤原氏のライバルではなかった。宇多天皇が重用して異例の昇進をしたが、宇多天皇が上皇になって(897年)からも、波風が立っていたわけではない。したがって、この左遷人事は、当事者の道真自身にも、訳が分からなかったに違いない。

 道真が左遷されても、朝廷の政策が変わったわけではない。この10世紀の初頭は、律令国家にとって大きな転機にあたる。地方から税が集まりにくくなり、その対策として国司(このころは受領と呼ばれる)に権限を委譲し、税収確保を含め地方支配を任せる方向へ踏み出した。その時期が10世紀初頭か、10世紀半ばかについて論争はあるものの、いずれにせよ分権化へ切り替える時期だった。道真が朝廷の中枢にいたのは、非常に微妙な時期だった。そして道真がいなくなっても藤原氏は分権化を推し進めた。

 そもそも、藤原氏が天皇家に対して第一の家臣になったのは、乙巳の変で中大兄皇子(のち天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が協力して蘇我氏を討ったことから始まった。その後、朝廷は日本書紀を編纂するが、その中の天孫降臨の部分にこうある。メインストーリではなく「一書(第二)に曰く」として「天照大神、天児屋命・太玉命に勅すらく「惟(これ)爾(いまし)二(ふたはしら)の神、亦同(ともに)殿の内に侍(さぶら)ひて、善く防護を為せ」とのたまふ」(日本古典文学大系)。この天児屋命(アマコヤネノミコト)が藤原氏の先祖である。藤原氏の地位の正統性は、この神話に基づく。天孫と一緒に高天原から降り、天皇を守るのは天照大神の命令なのである。だから天皇家のためなら、不適当な天皇を交代させることも正当な行為ということになる。

「神話に書いてあるからといって、だから何だ」。現代人はこう考えるが、1000年以上前の人々は違うらしい。この神の命令に従うのが絶対的に正しいと確信していた。そうした眼で見ると、宇多天皇に重用されて、道真が藤原氏を超えそうな権威を獲得するのは、神を恐れぬ所業なのである。実際、「右大臣辞任」を勧告する公卿もいたという。

 ちなみに、菅原氏の神話的先祖は、天孫に先行して地上に降りた天穂日命(アマノホヒノミコト)である。このミコトは地上の大己貴神(オオアナムチノカミ)に取り込まれてしまった。こんな程度のことを、優秀すぎるほどの道真が知らないはずはない。現実の仕事が忙しいため(例えば類聚国史という大著の編纂など)、注意が甘くなったのか。

 藤原氏の「他氏排斥」は同氏の主観では、神が命じる正しい日本の姿を作る努力なのだろう(自作自演だが)。この形は道真排除でほぼ完成した。のち安和の変(969年)で源高明が排除されるが、源高明は醍醐天皇の皇子であり、他氏とも言い難い。大宰府に流されて、三年後に許されて帰京した。これで摂関の藤原氏独占は固まった。

 摂関は律令では定められていない。大臣を超える別格の役職である。逆に言えば、他氏は大臣までというルールである。その上にたって、10世紀末には藤原道長の栄華が実現する。これも実は財政を支える受領の努力がもたらしていた。道長のころにはナンバー2のはずの藤原氏の「氏の長者」が、トップの天皇に事実上命令するほどの権力を持つようになる。ただ、この体制は摂関の娘が入内し、次の天皇を産むという、偶然に支えられた不安定な面を持っていたのも事実である。

 摂関政治は誰も反対できないトップを頂き、ナンバー2が自由に腕を振るえた。トップは失政があれば、ナンバー2以下の責任を追及すればいい。トップが揺らぐ問題が発生しない限り、トップもナンバー2も居心地は悪くない。そこで一種の伝統になっていった。

 例えば鎌倉幕府である。源氏三代の将軍の後、将軍は摂関家、天皇家から派遣してもらうようになる。例外はあるが、この将軍は幼少でもあり、ロボットそのもの。北条氏が権力を独占した。鎌倉幕府の末期には北条氏の内部にも、トップの得宗・ナンバー2の御内人という関係が作られた。同様な関係は、江戸幕府でも将軍と幕閣の間で見られる時期がある。明治維新もトップの天皇を抱き込んだ急進派が政治を動かした。もっと近い例として、昭和の「天皇の軍隊」に於けるナンバー2すなわち軍指導者(トップは天皇)の暴走が上げられる。ナンバー2にフリーハンドを許す、悪しき伝統というべきだろう。

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