「今日の日本を知るためには、応仁の乱以降の歴史を知れば十分……」。こうした名言を内藤湖南氏が語り、今でもしばしば引用される。見事に日本の歴史を二つに切りわけている。しかし、待てよ。この講演がなされたのは1921年(大正10年)。約100年前だ。いま内藤氏は同じことを言うだろうか。アジア・太平洋戦争という深刻な体験を経て、いまなら碩学は何を語るだろうか。大正時代の内藤氏は応仁の乱により日本史を大きく二分した。ここで時代が大きく変わったというのである。それ以前に力を持っていた家が消え去り、新興勢力(平民の下克上と彼は言う)と入れ代わった。エリートの構成が一変した。これは、天皇家以外は古代以来の神話的権威を失ってしまったことを意味する。
しかし、応仁の乱の前後で社会の組織原理が変わったわけではない。主従制を基礎とした武家中心の社会という点は連続していた。この主従制は主君Aの下にBCという家臣がいた場合、Bの下にb1・b2・b3・b4、さらにb1の下に家臣がいるという末広がりの構造が形成できる。論理的にはエリート層を無限に増やせる。主君との契約が必要なだけだ。この柔軟性が支配の広域化を支える力となった。当然、これは中世の生産力発展を背景としている(鉄製農機具、耕作用牛の普及は鎌倉時代といわれる)。
古代の神話的権威に基づくエリート層の形成は、現状を固定する力はあるが、それが限界と表裏一体になっている。たとえば藤原氏・忌部氏などのように高天原から来た氏族のほか、「国つ神」系の人々も、神話時代に天皇家の臣下になった人たちだけがエリートである。しかし、神話として文字化したら、それ以外の氏族はそのエリート層には入れない。いわば固定的な「会員制クラブ」である。新興氏族がいかに先祖はある天皇だったという系図を持ってきても、会員制クラブの構成員にはなれなかった。会員間でケンカをして、相手を滅ぼせば会員は減ってしまう。神話の枠組みに制約され、エリート層は「由緒の正しさ」は確保できるが、その構成員を増やすことが難しいのだ。
こうした社会組織の観点からすると、今日の日本から見て過去を二分する転換点は「明治維新」と言わざるをえない。主従制(身分制・世襲制・家格秩序などの総体として)から、能力に基づく官僚制へと大きく転換した。我々は会社に入ろうと、役所に入ろうと、上司の「全人格的臣下」ではない。明治維新より前のもう一つの転換点は、「鎌倉時代」だと考える。いつからかというのが難しい。「鎌倉殿」が成立した12世紀末とは言いがたい。あえていえば承久の乱により鎌倉方が宮方を破ったとき、である。破れたとき、後鳥羽上皇が「武家が勝手にやったこと」と言い訳をしたとき、古代権力は主従制を取り込む途を自ら閉ざしてしまった。そもそも後鳥羽上皇が自ら戦場に出たら展開が変わったかもしれない。のち鎌倉時代に宮方に挽回のチャンスがなかったわけではない。それが元寇だった。主権者というのは「異常事態に際しての決定者」というカール・シュミットの反議会主義的言葉を適用すれば、元寇という異常事態に対して天皇自ら戦争を決断し、戦場に足を運べば、宮方の権力が武家への命令権を取り戻せたかもしれない。
日本では社会の組織原理=権カエリートの選び方は三度しか変わっていない。二つは明治維新と鎌倉幕府確立である。それよりはるか以前の律令制国家の成立(エリート層の支配根拠は神話の「天孫降臨」)も、もう一つの巨大変化であろうが、この変化は大化前代の組織原理がよく分からないため、定式化できない。そこで内藤氏の講演に戻る。「今の日本を知るためには、〇〇以降を知ればいい」という言い方を真似ると、○○には明治維新を入れるのが適当だろう。ただ明治維新を知るには当然江戸幕府も知らなければならない。したがって正確には「江戸時代の享保の改革以降を知ればいい」ということになる。もっとも、碩学が喝破した「応仁の乱云々」という名言に比較すると、何とも教科書的な表現であり、迫力の乏しさは否定しようがない。
このHPでは明治維新、鎌倉時代という歴史の連続性を破る二つの時代をとりあげ、「今日の日本」の評価・行方についての議論へとつなげていきたい。