3-3 「愚管抄」–古代思想への挽歌

 承久の乱で鎌倉幕府を攻めようとする後鳥羽上皇に対し、思い止まらせようと書かれたのが愚管抄である。その説得の論理は「古代の思想」「天皇・摂関制の論理」に従っている。したがって、これは著者の慈円が「最も説得力がある」と考えた論理を使用したのだろう。慈円は摂関家出身で、天台座主を勤めた僧侶だが、仏教の論理を全く使っていない。その論理とは「上皇は幕府と争おうとするが、冥衆は争わないほうがいいと考えている。冥衆に背いても失敗しますよ」というのである。「冥衆」とは、我々の現実とは異なる世界の住人たち。開闢神話の神や仏という上品なものばかりでなく、怨霊、天狗あるいはキツネ・鬼などを含む。我々と共存するが、我々の日には見えないもう一つの世界の住人である。

 愚管抄は、歴史を人間が作るものとは考えない。主役は冥衆である。冥衆と人間の宥和・対立の推移が歴史と見る。冥衆の考える通りのことを人間か選択すれば、人間の寿命も伸び、社会は幸福になる。逆に、冥衆の考えることに背くと人間は不幸になる。ここでいう幸福・不幸は主に天皇家・摂関家にとってである。摂関家の先祖は、日本書紀によると、天孫降臨のとき、天皇家を補佐するように天照大神に頼まれて、ニニギノミコトとともに高天原から降りてきた。それ以来、天皇家と摂関家は一体と慈円は強調する。しかし、この両家は冥衆の意向に反したため、次第に不幸の道に迷い込んでいる。保元・平治の乱などから「ムサノ世」(武者の世)になってしまったのも、選択を間違えたからであり、冥衆は現実を通して、その意向を両家に気づかせようとしているのである。

 よく慈円の史観は下降史観、道理史観と評される。確かに下降を言っているが、それは必然的な下降ではなく、人間と冥衆の対立がもたらした。人間の行動次第で上昇にも転じる。この冥衆の判断を慈円は「道理」と呼んでいる。この道理という言葉は現在では「物事の正しい考え方」といった意味になり、道理史観というと、歴史哲学を述べたもののような誤解を生むニュアンスがある。正しくは、「冥衆史観」と言うべきだろう。

 もちろん、行動するのはあくまで人間である。それに対し、気に入れば冥衆はいい結果を与え、気に入らなければ不幸を与える。しかし、冥衆は人間に対して行動を制約するわけではなく、冥衆の判断は結果によって示す。人間は自由に行動できる。だから、後鳥羽上皇は承久の乱を起こした。挑まれた北条義時たちは大江広元の「運を天道に任せて早く軍兵を京都に発遣せらるべし」という意見を取り入れ、北陸道、東山道、東海道の三方向から京都へ先制攻撃に向かった。天道に任せる。勝てるかどうかを決めるのは天道なのである。慈円にいわせれば冥衆が決めるのだろう。実際には、慈円が心配したとおり、幕府軍の圧勝で終わった。

 それまでは私戦は別にして大きな闘いは、天皇・上皇が敵を追討する命令を発し、それに則って戦争がなされた。源平合戦も頼朝の行動は平家追討の院宣に基づいている。しかし、この承久の乱は、院宣により追討の対象となったほうが、逆襲し圧勝した。北条義時は院の権威ではなく自立した権力として行動している。冥衆という神話などにルーツを持つ権威を無視する行動力を得たのである。幕府に結集している御家人たちは、ごく一部の例外を除き、将軍への忠誠を失わなかった。三方からの攻撃も、京都への年貢運搬を止めることができるという脅しだろう。恩賞目当てという打算を含め、古代よりは現実的になってきた。中世は宗教がまだ力を持っていた時代だが、主従制による結束の強さがすでに現実を動かすようになった。幕府は自立への途を進め、時代は古代から中世へ移行したのである。それは血なまぐさい実力(暴力)の世界の拡大でもあった。

 

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