3-6 主流の権門体制論

 鎌倉時代について「変化」の面ばかりを取り上げてきたが、当時朝廷は乙巳の変(大化の改新)から数えて、既に約600年支配を続けてきた。多くの人々にとって山河のような「自然」と同じように見えてきたに違いない。したがって鎌倉殿が武士の中心になったといっても、社会がひっくり返ったわけではない。まだ鎌倉殿に結集しない武士も多く残っていた。鎌倉末期に近いころの左大臣西園寺公衡(関東申次として幕府と接触した)の日記には朝廷、公家の儀式に関する詳細が記録されている。衣装の色など感心するほど専門的である。記録への情熱が伺われ、上層公家には武家の影響などまったく見えない。

 公家は公家として自分たちの世界で生きていた。大寺社も膨大な東寺百合文書を残すほど活発な活動をしていた。武家は多くの戦などが吾妻鏡に書かれている。各自の動きを総合的にとらえる論理として、黒田俊雄氏が権門体制論を唱えた。これは公家・武家・寺家の権門が相互依存することで全体が成り立っていると見る。天皇家をどこに位置づけるかは難しい。この公家・武家・寺家を上から統合するのか、それとも公家と一体と見るのか。天皇家が荘園依存を高めるほど、経済的には公家などと同質化していく。もちろん政治的には官職を与える天皇家と、それを受ける公家などとは、立場の違いは歴然としている。

 これが現在、鎌倉時代を見る主流をなす考え方である。かつてのように武家が農村支配を広げ、それを背景に公家を駆逐していくだけの過程ととらえると、実態に合わないのである。たとえば武士といっても、公家出身もおり、中央の公家とつながりを持っているケースが多いからだ。実際、鎌倉殿はブレーンとして公家を京都から招いている。

 

 一般に中世とは院政以降を指す。具体的には後三条天皇(即位は1034年)からだ。この時代、院(上皇)の力が強かった。武士・中堅貴族を自由に動かし、一方で摂関家からは国司任命の力などを奪って行った。この力を生み出す財政基盤は院直系の女院・寺院を本所とする荘園であり、知行国主の任命権などである。後三条天皇のときは徹底的な荘園整理を行い、公領を守る姿勢を強く打ち出した。摂関家さえ荘園リストを提出した。しかし、二代あとの鳥羽院の時は天皇家自身が荘園を大いに増やした。

 一律に権門といっても、荘園への関わりはそれぞれ異なる。武家は鎌倉殿のように本所となるケースもあるが、多くは荘園からの徴税・治安維持を担う地頭(荘官)である。公家は名門が本所となり、中級以下は預所として現場で事務を担ったりするが、治安維持の力仕事はしない。寺家は荘園管理もするが農民との対決は専門家に任すことが多い。単純化すると摂関家、大寺社に末端の農村から税をわたすのが武家という形である。武士は教養面では公家に依存し、仏事遂行のため寺社を無視できない。確かに相互依存なのである。ただ、利害関係は明らかに対立する。徴収した税(コメ)の取り分を多くしたい武家、従来通りに維持したい公家という根本的な矛盾が、徴税の現場から顕在化していく。

 武家対公家の裁判では、鎌倉初期は公家(本所)の勝ちだったが、鎌倉末期には武家(地頭)の勝ちが増えてくる。実際、鎌倉時代には荘園制の完成と同時にその変質が始まる。あまり例は多くないが、下地中分という、公家と武家が一つの荘園を二つに分けて、互いの協力解消という方法もとられた。室町時代になると、南北朝の動乱に関する軍事費調達が必要になり、半済という公家・寺家に渡す分の税金を半分に減らす方策が強行された。武家の取り分が増えることで、荘園秩序は次第に解体していった。

 政治的な変化も起きる。中世当初は院が強かったが、12世紀半ばの保元・平治のころになると、武家が自信をつけてくる。つまり武力行使が政治を変えるのである。武家の自立化の第一段階が鎌倉殿への結集である(平家政権からという見方もある)。各地で領地をめぐる小競り合いが起き、近隣の武装集団の侵略に対抗するためにも、主従制で結束を図り、ネットワークを広げる。鎌倉時代から戦国時代終了までは、戦争の歴史だった。

 

 権門体制論が想定する三権門の「協力体制」は、当事者にとって居心地のいいものではなかった。つまり三権門が「協力」していたのは平家政権、源家将軍の鎌倉初期に限るようだ。武家の力が弱い一時期に現れた例外的、過渡的体制ではないか。公武の二重権力状態は長く続くのだが、畿内の公家政権、東国の武家政権という見方も一定の説得力を持つ。

 なお寺家は権門体制の一角をしめるが、自身が領域権力を狙う、まして国の権力を握るつもりはない。神木を担いで朝廷に対して自分の主張を通すという、一種の暴力を行使するが、権力追求というより圧力団体的な行動に徹している。

 現実の変化と比べると、権門体制論はあまりに静態的だ。武士の動向だけでは中世を語れないという主張はその通りだが、この時代は権力形成という面では、神話的秩序と主従制秩序とが激突した。もちろん、権門体制論は三権門とも農民から搾取・収奪する「けしからぬ一団」であることを表現し、武士を「歴史を動かす階層」と好意的にとらえる、かつての見方への警告ということであれば、異論をはさむ余地はないのだが。

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