3-16 鎌倉幕府(1)――頼朝は誰と戦ったのか

 治承・寿永の内乱を、治承4(1180)年4月の以仁王令旨から、文治5(1189)年9月に終わった奥州合戦までととらえると、いわゆる「源平合戦」は、頼朝の戦いの一部にすぎない。約10年の間、頼朝は平家を含め多くの敵と戦った。

 頼朝が挙兵したのは治承4(1180)年8月のこと。攻撃相手は伊豆国の目代山木兼隆である。山木は治承4年5月に以仁王・源頼政の反乱を鎮圧した朝廷・平家が、伊豆国の知行国主を平時忠に替えたのと同時に補任された。清盛の平氏政権は、伊豆の流人・頼朝への監視を強化したのである。山木は討ち取ったが、その後の石橋山の合戦では、平家家人の大庭景親に敗れて、頼朝は安房に逃走し、江戸湾を陸路一周して鎌倉に入った。

 次の戦いは平家が派遣した東国追討軍が相手だった。治承4年10月、平維盛を大将とした追討軍と富士川をはさんで対峙し、水鳥の羽音に驚いた平家軍が戦わずして撤退した、と言われる有名な戦いである。頼朝軍は黄瀬川まで兵を進めたが、実際に富士川で対峙したのは、甲斐からきた武田信義軍である。武田氏は清和源氏で、頼朝にとって同族だが、反平氏の主導権争いのライバル、敵でもあった。武田の大軍を見て、維盛軍から投降者が続出し、戦いにならなかった。水鳥の羽音は後からの創作らしい。

 「富士川の勝利の後、頼朝は都に攻め上ろうとして、御家人たちに止められた」という話も、慎重な頼朝にふさわしくない。確かに頼朝には中央指向の面があり、それを嫌った東国御家人の感情が反映した作り話だろう。頼朝がこの段階で鎌倉をがら空きにすることは、まずありえない。

 次の戦いの舞台は鎌倉の東のほうの常陸である。治承4年11月に頼朝は常陸の金砂城の佐竹秀義と戦い、勝利を収めた。佐竹氏も武田氏と同じく源義光の子孫で、頼朝とは同族である。東の佐竹氏を服属させたことで、平家との西での戦いに重点を移せるようになった。鎌倉では御家人との主従制を固めており、ここまでが第一段階である。

 第二段階に進む前に、休戦期間がある。養和1(1181)~養和2(1182)年は全国的な大飢饉だった。鴨長明の「方丈記」に京都の死臭が漂う惨状が描写されている。養和1年閏2月に清盛が死去し、平氏は大黒柱を失う。頼朝は同年7月ごろ、後白河院に「戦争をせず、西は平家・東は源氏が朝廷を守る体制ではどうか」という密奏をしている(平家は拒否したという)。こうした朝廷外交が「信用」を得る一助になった。

 第二段階が動き始めるのは寿永2(1183)年である。平家との戦いは、同時に源氏の棟梁争いでもあった。2月には志田義弘(頼朝の叔父)が反頼朝の兵を挙げたが、頼朝の御家人の小山朝政に敗れた。3月には頼朝と木曽義仲(頼朝の従弟)が衝突しそうになり、義仲が人質(息子の清水冠者義高)を出して戦闘を避けたらしい。4月には北陸を勢力圏に収めた義仲に対し、平家の維盛が大軍で追討に向かった。しかし、5月に倶利伽羅谷で、義仲に大敗した。京都に迫る義仲との激突を回避して、7月には平家が「都落ち」。入れ違いに義仲が上洛し、京都は混乱に陥る。義仲軍は各地の源氏など混成軍のため統制がとれていなかった。頼朝は12月に義経・範頼に義仲追討を命じている。同じ12月に後白河院は強要されて義仲に頼朝追討を命じている。

 この寿永2年、頼朝の後白河院との戦いが始まった。有名な「十月宣旨」を勝ち取ったのだ。これは「先日の宣旨(「東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の荘園、元の如く領家に随うべし」百錬抄10月14日条)に曰く、(その宣旨に)不服の輩有らば、頼朝に触れて沙汰いたすべしと云々」(玉葉10月22日条)。「荘園の運営を戦乱・飢饉の前のようにしろ、従わない輩がいたら頼朝に言って倒してもらえ」という宣旨を後白河院が出した。この宣旨は頼朝の奏上に基づいて出された。押領された荘園を元の持主に返し、困窮する京都に元と同じようにコメが届くようにする。これに後白河院が飛びついたのだろう。朝廷は東海道、東山道の実力支配を停止し、頼朝に正常化のため実力行使(地頭を補任する人事権も含まれたのか)を認めた。頼朝は謀反人から脱し、「東国沙汰権」を持った支配者に変わった。

 義仲は元暦1(1184)年1月に義経に打ち取られた。都落ちした平家は範頼軍が攻めきれず、途中から参戦した義経が元暦2(1185)年3月に瀬戸内の壇ノ浦で滅ぼした。これについて三つの重要事項がある。第一、義経は京都の治安回復を命じられており、途中参戦は頼朝ではなく後白河院の命令だった。第二、義経が大勝利した一の谷の合戦は、どうも裏があった。平宗盛の手紙が吾妻鏡寿永3(1184)年2月20日条に載っている。「勅使を派遣する」と後白河院から手紙があり、戦いの準備をしていないところに、義経が攻めてきたという。大勝利は後白河院の騙し討ちだった可能性がある。第三、頼朝は安徳天皇、建礼門院、三種の神器を取り戻すため、長期戦を覚悟していたが、義経は短期決戦に出た。このためか、安徳天皇、神剣が失われた。

 第三段階は、表面は頼朝対御家人、頼朝対奥州藤原氏だが、本当は頼朝対後白河院の戦いの継続だった。壇ノ浦の戦いの直後、頼朝は御家人の無断任官について口を極めて罵る手紙を出している(「吾妻鏡」元暦2年4月15日条)。御家人を朝臣として取り込もうとする後白河院、朝廷から離れた武家秩序を作ろうとする頼朝。古代秩序と中世秩序は本質的に対立せざるをえない。その狭間に落ち込んだのが義経である。

 義経は平家攻めの前の元暦1(1184)年8月に、左衛門少尉、検非違使に任ぜられた。壇ノ浦からの凱旋直後の元暦2(1185)年4月27日に、官位とは別に、後白河院の御厩司(みまやのつかさ)の地位を与えられた。院政期の上皇は、白河院が始めた北面の武士に見られるように、「私的」軍隊を擁していた。その軍隊の中心になるのが、この御厩司だった。これは「院近臣の中心人物が就き」、「院が有する武力を統括・管理する」役職である、と元木泰雄氏が指摘している。

 後白河院の戦後構想では、義経・豊後の藤原頼輔一族・奥州藤原氏を核とする広域軍事体制を作ろうとしていた、と元木氏は推定する。これができると、東国・北陸を押さえる頼朝にとって脅威であり、この萌芽は摘むにこしたことはない。主従制による武家の統合を進めるうえでの最大の敵が、神話的権威による院の武家動員原理だった。互いの共存は不可能で、どちらかに一本化せざるをえなかった。頼朝の論理から言えば、院に取り込まれたような義経、頼朝の主従制に入らない奥州藤原氏は滅ぼす以外に選択肢はなかった。

 それが達成されたあと、頼朝は娘二人を入内させようと朝廷に接近し、結局は失敗した。吾妻鏡は語らないが、御家人たちは頼朝の行動を怒っていたはずだ。盟友だった摂関家の九条兼実も失脚し、何もいいことはなかった。生まれ育ちが京都という、体質の地金が現われたのだろう。この時代、朝廷という磁場は頼朝を狂わすほど力があった。

 しかし、頼朝が死んだ次の年、吾妻鏡の正治2(1200)年1月28日条に妙な話が載っている。武田信光がこう話した。「兄の有義が梶原景時と約束をして、密かに上洛すると聞いたので、会いに行ったら、有義は逃げ去っており、景時の封書だけが一通残されていた」。信光は五男であり、兄四人は死んだり行方知れず。武田家内部での権力闘争が頼朝派の勝利で終わった。武田氏を長い時間をかけて、完全に主従制に取り込んだ。棟梁になる可能性のある人物は残さない。鎌倉権力の慎重さ、執念深さは変わっていなかった。

 それでも棟梁候補は生き残った。これから100年以上、鎌倉権力の監視の日々を、新田、足利という清和源氏の大変血縁の近い名門二家が生き延びた。新田は冷遇され、足利は不気味がられながらスキを見せなかったのである。

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