2-8 海外渡航禁止の「負の遺産」

 嘉永6年(1853年)のペリー来航、翌年の日米和親条約で、日本は下田、函館を開港した。同様の条約をイギリス、ロシア、オランダを結び、これらの国民は日本に来られるようになったが、日本人の海外渡航は禁止されたままだった。日本人の海外渡航が解禁されたのは慶応2年(1866年)4月だった(「海外渡航差許布告」)。これ以前の10年間、海外への視察・留学などに最初に動いたのは、当然渡航を許す権限のある幕府だった。万延元年(1860年)に使節が米国に派遣され、そこには福沢諭吉などが従僕の名目で参加していた。文久2年(1862年)のオランダ派遣では榎本武揚、西周などの幕臣が10名ばかり各自目的を絞った、本格的留学が行われた。

 幕府以外は「違法」のため、文久3年の長州藩(5名)、慶応元年の薩摩藩(14名)は、「密航」であった。個人的な留学は新島襄が元治元年(1864年)に米国に、さらに出国年は不明だが橘耕斎がロシアに行っている。橘耕斎はロシア語の辞書を作るなど成果を上げたが、渡航は官憲に追われたためらしく、通常の留学とは異なる。個人が「勉強のため」に密航したのは新島ただ一人らしい。視察という点では高杉晋作が文久2年に上海に行っている。密航に失敗した例としては、吉田松陰が安政元年(1854年)にアメリカに行こうとしたのが有名である。表沙汰になっていない渡航の例があるのかもしれないが、渡航解禁以前、海外に勉強のために出たのは、多めにカウントしても100名をはるかに下回るに違いない。少なすぎるのではないか。

 歴史書では黒船が来た際、特に東京湾に再来したとき、民衆が興味津々、眺めて喜んでいたとある。興味はあるのだが、珍しい動物を見るような、距離を置いたものだったのだろう。身近なものと思わないので、海外に行きたいという感情が湧かないのか。ペリー来航以降の10年は、特に京都で攘夷運動が過激化するが、攘夷を叫ぶ若者は当然、海外に出たことはない。当時の朝廷は「夷狄は犬猫と同じ」といった認識だった。いずれも関心の方向が国内に向き、国外へ向かわない。これは鎖国の「成果」だったのではないか。200年以上禁止されてきたため、「渡航の夢を見ても所詮はむだ、関心をもたないほうがいい」と、思って当然だろう。

 江戸時代は鎖国ではなかったとする論が定説と化している。長崎など「四つの口」が海外とつながっていた、というのだ、しかし、小さな口から海外情報を取り入れて、エリートがその知識を蓄積しても、社会的な知にはならない。鎖国は、社会の海外に関する知識を乏しくし、精神構造さえ変えてしまったのだろう。したがって明治になってからのエリート層による、西欧文明の急速な取り込みは上手くいったものの、社会全体の心情は攘夷的なものを残していた。西欧への憧れと反発という底流が、アジアへの眼差しをゆがめる面があったのも事実だろう

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