2-9 小御所会議のマキャベリズム

 徳川慶喜が大政を奉還したのは慶応3年(1867年)10月14日、勅許が翌15日である。さらに将軍職辞任の上表が24日、これは幕府を暫定的に残すため「保留」されたが、これで「武力倒幕」の必要がなくなった。相手が消えてしまったのだ。

 実際には、倒幕のための挙兵は実施が困難だった。首謀者は大久保・西郷・岩倉などだが、以前から薩摩藩当局は、倒幕の挙兵に反対していた。土佐藩も当局は消極的で薩土盟約(同年6月)は9月に解消された。こうした中で薩摩兵の上京が遅れ、長州藩は出兵を延期した。倒幕を目指した大久保・西郷・後藤・岩倉らの当初計画は失敗、見直しを迫られていた。しかし、大久保らは諦めず、中山忠能など公家に「倒幕の密勅」(偽勅)を要請し、手に入れたそれを薩摩・長州藩主に伝えた。この倒幕の挙兵に対し、先回りした慶喜の大政奉還だった。

 政府は朝廷だけになった。朝廷は全大名に上洛令を発した。しかし、大名はほとんど集まらなかった。徳川家の頭越しの命令を聞くことをためらった。巨大な幕府が自分で政権を放棄した。理由はよく分からない。朝敵になることへの恐れ、幕府の現状への絶望か。すぐに朝廷から幕府へ政権が返上されるのを期待したわけでもない。そこで朝廷が「新しい政府」を作る機会が訪れた。倒幕派は機会を逃さなかった。11月18日には薩摩藩主島津忠義が3000名の兵をつれて上洛した。長州藩も「朝敵」として、まだ京都には入れないが、先発隊800名が打出浜(芦屋)に上陸し、西宮に布陣した。続々と有力藩主が京都に集まってきた。

 12月8日には内裏で国事評議が行われた。八月十八日の政変以来京都を追われていた三条実美の帰洛許可、長州の毛利父子(前藩主と現藩主)の官位回復などが決定された。急進派廷臣などに対する、朝廷が下した処分の解除である。この会議は長くかかり、終わったのは9日未明だった。参加した公家の多くは夜が明けてから、三々五々帰宅したが、中山忠能・正親町三条実愛・長谷信篤は御所に残った。武家では徳川慶勝(尾張)・松平春嶽(越前)・浅野茂勲(芸州)。計6名だけが残った。

 御所での評議が終わってから、倒幕派は9日の会議のため、キーになる公家、武家の招集をめざして、連絡に走り回ったに違いない。たとえば、大久保利通は有栖川宮、山階宮、仁和寺宮への連絡に当たったという。徹夜だった人もいたはずだ。

 この9日朝、岩倉・中御門経之が御所に入った。さらに有栖川宮・山階宮・仁和寺宮・島津忠義(薩摩)・山内容堂(土佐)が加わった。参加者は計13名である。出席者としては、薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の5藩から二名ずつ藩士が加わる。薩摩からは大久保・岩下方平である。内裏の門は、薩摩・土佐・芸州藩の藩兵が固めた。ほか御所内には尾張・越前の兵も入った。武力の実質的な指導者が、全容を把握していた西郷隆盛である。

 9日の昼過ぎ、天皇臨席のもとで「小御所会議」が開かれた。この会議で、天皇が王政復古を宣言し、幕府・朝廷の廃絶、新政府の組織が発表された。新たな職制は総裁・議定・参与の三職。同時に総裁が熾仁親王、議定は公家5名、武家5名などの人事も発表された。議定の中に土佐の山内容堂も入っているが、その主張であった雄藩連合政権とは異なる。容堂は、この席に慶喜を呼ばないのは「陰険の所為」と主張し、「幼主を擁し奉りて権柄を竊(ぬす)まんとするにあらざるか」と加えた。図星の正論である。しかし、「天皇に幼主とは何だ」と、岩倉が噛みつき、容堂は謝罪したという(徳川慶喜公伝29章)。

 中休みがあり、再び出席者が小御所に招集された。初の三職会議である。議題は慶喜の処遇である。大久保たちは内大臣慶喜に対し、辞官・納地(徳川家領を天皇家に差し出す)命令を主張した。この「いやがらせ」で慶喜から反発を引き出し、戦争に持ち込む予定だった。明らかなマキャベリズムである。天皇を手中にしているからといって、どう見ても「やり過ぎ」である。さすがに山内容堂、松平春嶽などの反対にあい、命令ではなく自発的な申し出を待つことになった。

 こうして新政府を創出した。大久保・西郷・岩倉など倒幕派は全体状況からは少数派だが、多数派の公儀政体派も参加したという形をとった。実際には倒幕派の主張が通る人選をした。反対を封じるため、岩倉が天皇を前面に出してきた。公家の中には、「王政復古」の名により、自分たちの時代がくると誤解した人もいただろう。倒幕派の狡猾さの勝利というべきか。結果がすべての戦場リアリズム。生き残るためには何でもありの、武士の原点のやり方である。

 それにしても、これはクーデタなのだろうか。クーデタというと、「武力で現政権を転覆する支配層内部の政変」を指すことが多いが、小御所会議のときはそもそも転覆すべき現政権がなかった。慶喜が放棄して政権は空白。そこを最もラディカルな一派が埋めたのである。天皇親政の形をとることで公家の反対を抑え込んだ。公家との妥協といった方が正確だろう。薄氷を踏みながら、天皇を抱き込んだ側が勝ったのである。

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