2-18 復古維新――夢破れた公家たち

 幕末には幕府と朝廷がケンカを始めた。幕府の支配の正統性は、天皇から将軍が「大政委任」されたという理論(松平定信が定式化した)が生まれたためだ。もちろん、徳川家康が武力で天下を取った時、天皇が委任状を出したわけではない。後付けの解釈、フィクションである。

 江戸時代の朝廷(天皇家、摂関家など公家)は幕府が認めた10万石ばかりの領地と様々な礼金に支えられて存続した。幕府は摂関・武家伝奏を通じて、朝廷を監視した。朝廷と大名の政治的交流は禁止された。朝廷は幕府に言われた通りに、武士に官職を授け、改元を実施した。朝廷内部(公家は130家ばかり)の人事は天皇家に任せたが、幕府との窓口である武家伝奏は幕府に人事権があった。要は、朝廷は幕府の一部だった。

 朝廷では18世紀半ばから規律が弛緩してきた。藤田覚氏が上げている例は、公家の宿直義務である「禁裏小番」の変貌である。真面目に勤めない公家に対し、1754年に摂政が咎めているという。そのころから物価高による公家の窮乏化が進む。

 寛政1(1789)年には「尊号一件」と呼ばれる事件が起きる。「天皇(光格天皇)の父が親王のままではいけない」という理由で、朝廷が「太上天皇(上皇)」号を要求し、幕府が拒否した。天皇が公卿40名に、尊号宣下に賛成か否かを問い、35名が賛成したと幕府に報告した。幕府が無視したため、朝廷独自で尊号宣下をしようとした。幕府はそれを認めず、直接(朝廷に任せず)武家伝奏などを1793年に処分した。朝廷は幕府の意向をそのまま実行するという体制が、ほころびてきたのである。

 朝廷が政治と無関係だった従来の政治運営は、嘉永6(1853)年のペリー来航以降崩れた。典型は朝廷の実力者である関白鷹司政通と、水戸前藩主徳川斉昭の関係である。姻戚関係を基礎に斉昭が関白に海外、幕府情勢を逐一知らせている。薩摩の島津家と近衛家も親戚である。西欧の脅威を前に、公武が情報交換するのは自然な成り行きだろう。幕府の対応は、傍からは「押されっぱなし」に見えた。有力大名も黙ってはいない。

 日米修好通商条約の締結に対して、朝廷は勅許を与えなかった。異例のことである。「武家でもう一度よく話しあって再び上奏しろ」が答えだった。それでも幕府は調印した。これが江戸時代の普通の運営方法だった。ところが、ルールを無視して(?)、時の孝明天皇が激怒して、幕府に異をとなえた。公武の攘夷派たちも怒った。反幕府の心情がベースにあり、「尊王攘夷」を旗印にして幕府に揺さぶりをかけた。

 公家も動き始めた。いわゆる攘夷派公家もルールを無視して関白邸に「88人列参」したのが安政5(1858)年のこと。通商条約調印に反対するデモである。文久3(1863)年2月には家格にとらわれない国事参政・国事寄人という新制度を導入した。反幕府・攘夷を旗印に、1000年以上の歴史を持つ公家の家格制度を無視し始めた。朝廷内での「民主化」「脱家格」が進んでいた。

 朝廷の「下剋上」は暴走し、過激公家は天皇を無視し始める。彼らの忠誠対象は、天皇という神である。この神は外国を従え、国内に安楽をもたらす、理想化された王であり、目の前にいる「生身の天皇」ではない。したがって、この神にふさわしい詔勅を公家が出し始める。孝明天皇は勝手な詔勅に激怒する。その結果が、文久3年の八月十八日の政変であり、過激公家、長州藩を京都から追い払った。朝彦親王と会津・薩摩両藩などが、孝明天皇の意を受けて実行した。

 攘夷の過激派を追い出したが、孝明天皇が求める平穏な日常は戻らなかった。孝明天皇の主張の組み合わせは、通商条約拒否、戦争回避、幕府委任、京都の神聖維持である。しかし、この四条件を同時に満たすのは不可能である。軍艦で威嚇しつつ、欧米から開国要求が来た以上、何らか対応はしなければならない。鎖国が維持できない時代になった。

 そもそも「箱庭」のような朝廷・公家の神話原理では、新事態に対応できない。武力・経済力を組織できないためだ。神話原理を超えて現実対応した武家の主従制でも、もはや対応できない。強敵に対抗するには国民軍が必要であり、その構築は身分制、分権制に基づく幕藩体制ではできない。ここでは国民軍を持てる体制に移行せざるをえない。

 そして慶応3(1867)年、王政復古である。主従制に基づく幕府、神話に基づく朝廷が同時に廃絶された。この段階では、新たな組織原理は見えてこない。混乱を超えて明治政府は大久保・西郷・木戸・岩倉などが中心になり、天皇(神話原理)を限度いっぱい利用して、運よく手に入れた政権の支持基盤を作っていく。よく知られるように、幕末に木戸孝允などは天皇を手紙の中で「玉」と呼んだ。生身の天皇を相手にしたのではない。

 しかし、多くの公家は天皇権力の復活に夢を託した。朝廷内は倒幕派、大政委任派と路線は分かれても、ともに自分たちが中心になる時代がくると思った。確かに、天皇が中心の世になったが、我が世の春の夢想は現実に裏切られた。公家は維新により朝廷、幕府という二重の籠から「解放」されたが、明治政府内では次第に名誉職に排除されていった。政治は究極の世俗の仕事である。経済力、軍事力強化を目指す明治政府の中で、公家は役割を果たしようがなかった。祭り上げられた公家が誤解したのか、武士のマキャベリズムにだまされて利用されたのか。

 西欧化政策に対して、公家の中では三条・岩倉だけがついていけたが、それでも大久保と西郷の征韓論争の中で、板挟みになった三条は倒れてしまった。「狂せり」と板垣退助は評している。三条実美は結局中心から離脱した。最大の成功者である岩倉具視ですら、仲間の公家が政府の中から姿を消していくことで、失意の中で死んでいった。

 明治国家に「天皇」は必要でも公家はいらない、と明治の元勲は考えた。したがって、実際には能力主義と神話原理が合体した異様な政体が生まれた。公家は華族に鋳直してももはや権威は復活しなかった。天皇神話は生き残った。神としての天皇(生身の天皇ではない)への忠誠という、尊王運動のエートスが、間欠泉のように噴出することになった。

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