歴史を気候変動との関連で見る試みが何度もなされている。
当然、まずは有史以来の気候を知らなければならない。例えば、よく引用されるのが阪口豊氏の「日本の先史・歴史時代の気候」という1984年の論文である。尾瀬ヶ原の泥炭層に含まれるハイマツの花粉の多寡によって気温の変化が推定できるという。暖かいほど花粉が多くなる。海外では、フェアブリッジ氏の海水面の水準を調べた世界規模の研究がある。暖かいと氷河が融けて海面が上昇する。理科系の頭脳・技術には驚かされる。
阪口氏よると、おおかた紀元後は700年代半ばまで寒冷。それ以降1300年ころまでは温暖だった。それから江戸時代が終わるころまで寒冷な気候だったという。近代以前は圧倒的に水田農業依存の経済だった。旱魃、寒冷でコメが不作だと、世の中は大変だった。実際1300~1850年くらいは飢饉の連続だった。戦国時代も寒かった。
戦国時代に九条政基という公卿(前関白)がいた。年貢の集まりが悪いため自分の荘園(和泉国日根荘)に行き、自ら荘園管理を行った。この時の日記、政基公旅引付には、川に晒してあるワラビの粉を盗んだ母親が、見張っていた若衆に処罰として殺されたという話がある。子供に食べさせるためなのか、ともかくひもじさの果ての悲劇である。
飢餓の村については、「戦国の作法」など一連の藤木久志氏の著作が詳しい。衝撃的な史実が迫力を持って飛び込んでくる。「奴隷狩り」「落人狩り」など凄惨な歴史。食うため、生き残るための戦いである。戦国時代は、英雄の華麗な時代ではなかった。
当時はまだ荘園制が生きており、多くの武士は荘官として、集めた年貢を荘園領主に届ける義務を負っていた。中央の大貴族、大寺社に渡すのだが、不作もあり武士が年貢を独占するようになる。室町時代の初期には半済といって、戦闘のためには年貢の半分を使えた。しかし、室町末期には半分どころか、まったく領主に渡さないケースが増えていく。
これを使わないと周囲の大名、国人、地侍などから侵略される。もはや、室町幕府の御家人でも、頼るべき幕府が弱体化し、自力で対処するしかない。近辺の大名、国人の傘下に入るか、自分が国人を傘下に入れるか。戦力がなければ滅亡は免れない。生き残るためには、カネをかけて臨戦態勢を強化する以外に選択肢はない。
戦国時代というと「下剋上」が必ず話題になる。しかし、もちろん権力欲に裏付けられてはいるものの、無能な君主との心中を避ける、追い詰められた選択であった。それに納得するからこそ、部下も命がけでついていく。下剋上は主従制の否定である。しかし、その否定の中から生まれたのも、やはり主従制だった。平安時代、鎌倉時代など先行する時代の名門の権威が剥がれ、生の判断力、統率力が大事なのだ。そのリーダーは過去の栄光を背にした名門ではなく、実力で勝ち上がった。同じ主従制でも、リーダーの構成は大きく変わった。古いものを力で流し去り、リーダーの再編成がなされる過程が戦国時代だったのである。
ただ戦国時代には別の組織原理が現れた。
一揆である。この基礎には「惣村」がある。農民が自治により自分たちの生活・地域を守るための組織である。したがって武装している。もちろん武家同士の合戦に参加するわけでも、対抗するわけでもない。合戦に巻き込まれそうなら、領主の城に逃げ込むか、逃散する。中には村の背後の山に城を構えるケースもある。仮に村に異形の武士でも少人数で入ってきたら、武器を使って殺害し、武具を売ることもあったらしい。
室町時代を通し、灌漑を例として農業インフラの整備が進み、その運営は村人同士の協力を必要とした。入会地など共有財産を持って公平な利用をした。こうした村の運営を続けるうちに、必ずリーダーが生まれる。それが土豪、国人という人々である。
こうした土豪たちを糾合して、例えば負担を増やそうとする領主に対抗するのが一揆である。もっとも巨大なのが加賀一向一揆だ。存続はだいたい1488~1580年。「百姓が持ちたる国」といわれた。前史は複雑なのだが、真宗の門徒が、名目的な守護を担ぎ上げて国を運営した。石川郡など四郡の国人、地侍など侍門徒が指導する組織で、一人の主君を奉じたわけではない。実際に初期には本願寺も政治には介入しなかったという。
しかし、四郡の一揆はその郡内では警察・裁判権を行使したが、郡と郡衆、郡と郡との訴訟は加賀国内で解決せず、真宗の本山・本願寺の判断を仰いでいた。自立性が確立していたわけではなく、次第に戦国大名への対抗上、本願寺が指導を開始する。結局は、本願寺が戦国大名のような役割を果たしていくことになる。石山本願寺が織田信長に敗北(1580年)した同年に加賀一向一揆も終焉を迎えた。
自発的な自治を目指す試みは、主従制の政治権力に負けた。加賀一向一揆は日本歴史で唯一、広域の信仰を基盤にした共同体だった。上からの押し付けではなく、下からの秩序形成だったが、その後は主従制全盛の時代となり、持続的組織としての「一揆」は、伝統にならなかった。