3-11 秀吉が全国掌握――貫徹した主従制――

 本能寺で織田信長が自害を遂げたのは、1582(天正10)年6月2日。それからの豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の行動は、きわめて素早かった。13日に京都・山崎で明智光秀を破り、8月には織田重臣の清州会議で、信長の家督相続をめぐって主導権を握った。天正11年にはライバル柴田勝家をしりぞけ、後継者の地位を確実にした。すでに織田信長が中部地方を中心に広大な地域を支配していたが、その果実を基盤に統一政権への道をひた走る。連戦連勝。唯一、失敗に終わったのは、天正12年の小牧・長久手の戦いだ。徳川家康・織田信雄(信長の次男)の連合軍に敗れたのである。

 畿内・中部地方を押さえた秀吉政権の課題は、東西の大戦国大名を支配下に入れることだった。たとえば、島津(九州)、長宗我部(四国)、毛利(中国)、徳川(東海)、北条(関東)、上杉(越後)、伊達(出羽)などだ。いずれも広域支配の手ごわそうな相手である。しかし、秀吉は真っ向勝負の戦闘ではなく、武力を背景とした駆け引きで、次々と臣従させていく。この行動様式は戦国大名のそれではない。

 実際には、天正13年には、長宗我部氏を土佐一国に封じ込めたうえで、臣下にした。次の島津は九州を統一する勢いだったが、それにブレーキをかけ、もともとの薩摩・大隅などに押し戻した。島津は秀吉の停戦命令を受け入れず、戦闘継続の構えだったため、命令から一年半も経った天正15年6月に降伏した。

 徳川は天正14年、上杉も天正14年、毛利が天正15年、伊達が天正18年と、戦に頼らずに臣下に加えていった。見事な手際である。戦国大名を超えた行動様式だ。仮に、織田信長が生きていたら、戦国大名として力でねじ伏せたのではないか。少なくとも幾つかは派手な戦争になっていただろう。あるいは、秀吉は明征服を構想しており、戦力を確保したかったのか。こうした大名制圧と並行して、朝廷との関係もうまくこなしている。天正16年の正月には、臣下の室町将軍足利義昭をつれて、参内している。ここで義昭は正式に征夷大将軍の辞任を認められた。秀吉はこのとき関白太政大臣だった。もう統一政権まで、ほんの一歩に近づいたのだ。

 大物のうち、北条氏だけは「無血開城」をしなかった。北条氏と真田氏の間で上野国の領地紛争があり、秀吉が裁定した(天正17年)。にもかかわらず、北条氏の出先が真田側の名胡桃城を攻撃してしまった。これは秀吉への「反逆」を意味する。その前から他の大大名と同様に、北条氏が秀吉に臣従する交渉が持たれていた。この攻撃で、交渉は決裂、大戦争が始まった。大軍団を相手に北条氏は籠城戦を選び、ついに降伏した。

 なぜ北条氏が無謀な戦をしたのか。計算違いと言われるが、あの周到な北条氏がそんな間違いをするだろうか。もし北条氏が上野での裁定違反を謝った場合、「犯人の首をだせ」と言われたらどうするか。「家臣を保護する」のが主従制だった。(江戸時代になると、トカゲの尻尾のように家臣を切り捨てる大名も現れるが)秀吉サイドから見ると、北条氏と徳川氏が親密(北条氏の当主氏直の正室は徳川家康の娘)なため、楔を打ちたかったはず。ともかく、北条氏は完敗した。抗戦派の前当主氏政、その弟の氏照は切腹を免れなかったが、講和派の当主氏直は高野山に追放されただけですんだ。しかも、この嫡流は断絶せず、大阪南部の小さな狭山藩主として明治まで存続した。北条氏の籠城戦は当時の武家の常識からすると、許しがたいものではなかった。「理解できる」選択だったのだろう。

 北条氏の敗北とともに、伊達氏など東北の大物たちが臣従した。秀吉に対抗する武家はいなくなった。一元的な主従制の完成である。中世を特徴づけてきた権力の分散性が消えた。すべての武家の末端まで秀吉の命令が行き届く仕組みができ上がった。

 既に秀吉はバテレン追放(天正15年)、刀狩り(同16年)、海賊停止令(同16年)など戦国大名の地域国家を超えた政策を命令済み、統一基準の検地も進めていた。

 もう一つ中世の特徴である荘園制が消えた。荘園領主のトップ(本所)になるケースが多い京都の公家・寺社には、経済基盤としての領地を与える「知行宛行状」を発行している(天正13年)。そもそも戦国時代は寒冷な気候のため飢饉が多発した。戦国領主は戦いの準備に追われ、農民は自分が食べるだけでも大変だった。とても荘官でもある武士には、荘園領主に年貢を送る余裕はなかったはずだ。実際、戦国大名の統治法規である分国法(12カ国は完全な形で残っている)では、荘園について触れていない。

 秀吉は統一政権の形成に成功して、次いで戦国の疲れを癒せばよかったが、休むまもなく、「明征伐」に乗り出した。誇大妄想、暴挙である。二回目の戦争(慶長の役)のさなか、1598(慶長3)年に秀吉は死去した。武家の負担ばかり重く、恩賞がでない「勝てなかった戦争」の総大将として、評価は下がっていたはず。そこで幼い秀頼への継承と言われて、武家たちは困惑して当然だった。結局は、徳川家康の天下になった。しかし、その政策は秀吉から受け継いだものが多い。対外政策以外は丸ごとと言っていい。

 

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