二つの大構造変化について検討してきたが、では現在はどう位置づけられるのか。
歴史の中で、ある程度似た時代が見つかれば、その時代の前後の変化が参考になる。常識的な時代区分の年表を見ると、一種の周期性が浮き上がってくる。もちろん確実な年代が分かる時代に限定している。この周期性がなぜ起きたのか。単なる偶然かもしれない。ただ過去は周期的に政府そのものを取り替えて時代の変化に対応してきた。
組織原理 | 存続年代 | 期間 | |
律令時代 | 神話 | 645年~794年 | 149年 |
平安時代 | 794年~1072年 | 278年 | |
院政時代 | 1072年~1185年 | 113年 | |
鎌倉時代 | 主従制 | 1185年~1333年 | 148年 |
室町時代 | 1333年~1467年 | 134年 | |
戦国時代 | 1467年~1600年 | 133年 | |
江戸時代 | 1600年~1867年 | 267年 | |
明治時代 | 能力主義 | 1868年~現在 | 150年 |
一見して平安時代と江戸時代が他の時代の倍の長さであることが分かる。しかし、その期間の半ばにそれぞれ王朝国家への変革、享保の改革がある。それらも一種の「転機」と考えると、約120~150年くらいで変革を迎えてきた。もちろん社会現象に自然科学のような厳密性は求められない。単なるメドである。しかも、あくまで過去のことであり、これからも同様な途をたどるかは不明である。経験則は外れることも多い。
この周期性の原因は、政治が停滞後に社会経済との乖離を一挙に埋めるためだと思われる。経済は休むことのない人間活動であり、少しずつでも変化を止めない。それに伴い社会の富の所在が変化する。多くは富が下層に分散化する傾向がある。こうした流動する社会に対し、政治(既存権力)は変化を嫌う。そのため社会経済と政治の乖離が進み、120~150年ごとに、政治が一挙に社会経済に追いつくということだろう。
この表でみれば、現在はまさに転機にあたる。もしかすると既に変化が進行しているのかもしれない。大変革後の明治体制は長持ちしなかった。アジア太平洋戦争の敗戦により、天皇親政の骨格が吹き飛んだ。しかし、戦争で負けても、国内からは強烈な変革運動は起きなかった。その意味では、明治国家は国内的には破綻せず、持続した。公職追放で上役が大量に排除され、一挙に若返った結果、官僚・企業はすぐに息を吹き返し、明治同様、昭和・平成でも社会の中心にいた。現在も世論は社会的大変革が必要とは感じていない。
つまり明治体制も江戸時代、平安時代と同様250年続くパターンと見える。そうであれば、平安時代、江戸時代のどちらかが参考になるはずだ。
平安時代は始まってすぐに征夷戦争が終わり、そのあとは関東・東北を支配領域に取り込んでいった。この広域化と在地のリーダー達の成長に応じて、900年くらいから地方統治を現地に委ねる「王朝国家」に変わった。いわば分権化である。地方が力をつけた結果、平将門の乱(939年)など中央の束縛を嫌う反乱が起きた。成長期だったのである。一方、現在は東京一極集中が止まらず、人口減少もあり、地方の弱体化が進行中だ。少なくとも成長期ではない。これは平安時代とは状況は逆である。
では江戸時代はどうか。享保以降は、人口増加が止まるなど、現在とかなり似ている面がある。享保の改革を遂行した八代将軍徳川吉宗の前に六代家宣、七代家継という超短命政権があったが、この二代にわたり幕府中枢で将軍に仕えたのが新井白石だった。白石は引退後に自伝を書き、幕府の財政についてこう言っている。「歳々に納めらるる所の金は、およそ七十六、七万両余り」に対し「御給金が三十万両」「(これ以外に)去歳の国用、百四十万両に及べり」(「折たく柴の記」)。歳入の二倍以上の歳出であり、このままでは将来の行き詰まりは明らかだった。これまでは歳出が歳入を上回る分を貨幣の改鋳によって調達してきて、その分が累計で五百万両だった(同書)。そうした手法も限界に来ていた。
端的に言って、享保元年(1716年)、財政は破綻寸前だった。やるべきことは歳入を増やす(耕地を増やす、増税するなど)、歳出を減らす(倹約など)が基本。吉宗は「全て権現様(初代将軍の徳川家康)の掟の通り」を標榜したと言われる。冗費を削りに削った。一方で経済活動の活性化へ米市場を開設するなど、「権現様」なら許さないであろう経済政策まで試みた。教科書にある目安箱、足高なども旧来なら反対されたはずだ。
現代と似ているのは財政ばかりではない。江戸時代の初めの百年は、人口が1200万人から3000万人に急増した。ただ、当時、国勢調査はないため、正確ではない。この3000万人は、吉宗が人口調査を実施したため正確なのだが、武士は含まれていない。武士の人口は即ち軍事力のため、各藩の調査をしなかった。しかし、これ以後は幕末まで人口はほぼ横ばいが続いた。現在の人口減少時代よりはマシだった。吉宗は享保の飢饉などを乗り越えて、何とか財政を建て直した。それ以降の江戸幕府は自由化と引き締めが交代で現れる。田沼章次(放漫)→松平定信(引き締め)→徳川家斉(放漫)→水野忠邦(引き締め)。人気のない引き締めで余裕が生まれると放漫に戻り財政は悪化していった。こうした財政悪化は、各藩も例外を除いて同様だった。