1-9 絶対の神とどう付き合うか

 近代以前は宗教の存在感が大きかった。ただ、日本では宗教は、他のどの地域とも異なる、独自の展開をしたようだ。日本人が初めて出会った大宗教は言うまでもなく「仏教」だった。仏教が百済から贈られたのが、「上宮聖徳法王帝王説」、「元興寺資財帳」によれば538年のことで、これから現代まで宗教の主流は仏教だった。

 寺は奈良時代には国家の直営だった。他に藤原氏の氏寺としての興福寺があった。僧になるには国が認める必要があった。そのころ南都六宗と呼ばれたが、いまでいう宗派ではなく、経典の研究所だった。三論、成実、倶舎、法相、華厳、律がそれだが、倶舎宗は「倶舎論」という小乗の存在論を研究する団体、華厳宗は大乗の代表的教典を研究する。中国から先端知識を取り入れ、それにより国、あるいは天皇家、藤原家の安泰を願った。

 平安時代になると宗教が少し変わる。小乗ではなく、大乗が完全に制覇する。中国で栄えていた天台山(法華経)、密教(大日経)を取り入れ、天台宗、真言宗が始まる。以前は祈ることに専念したのに対し、密教は真言(呪文)により仏に働きかける。天台宗も観仏、念仏、座禅(止観)などの方法で仏に近づいていく。10世紀になると死後に、浄土に赴くため念仏が貴族間で大流行する。この浄土を求める「新宗教」が生み出されたのが鎌倉時代だが、実際に武士・農民にまで普及するのは戦国時代である。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗などである。武士中心に禅も市民権を得た。鎌倉時代以来、中国から禅僧が数多く来日している。

 この戦国時代に、キリスト教が日本に来た。ザビエルが1549(天文18)年に鹿児島にやってきて以降のことである。仏教とまったく異なる文化だった。表面的に見れば、「敬虔にすごし、祈れば救われる(天国行ける)」というのは、浄土教と似ている。願う対象が、阿弥陀ではなく、「デウス」に変わっただけのよう。しかし、大乗でいう、多くの仏国土をそれぞれ主宰する他の如来と並ぶ、デウス如来ではなかった。世界をすべて作った、全知全能の唯一の存在。これを日本人が十分に理解したわけではなかった。

 切支丹時代、日本人の反キリスト教的な質問で多かったのは、「全知全能の神が作ったのに、人間が不完全なのはなぜか」というものだったという。しかし、その論は旧約の「ヨブ記」に書いてある。「いい人が不幸になるのはなぜか」という問いである、結局は人間の判断力では、神の意図を知ることはできない。想像するに、人間の判断は相対的なものだが、神の判断は絶対的だという。人と神とは全く違う世界にいるということ、なのだろう。ともあれ、政治権力は、こうした不可解な思想を全面的に排除した。

 この神と人間の断絶が日本人にはよく分からない。ところが、世界は、こうした絶対を意識しつつ現実を生きている人たちが、もしかすると多数派なのかもしれない。

 キリスト教、イスラム教、もう一つは中国の天(人格神ではないが)だろう。人間を超えた絶対を前提にすると、人はすべてが相対化される。一君万民ではなく、一神万民である。だからアメリカでは裁判などの証言で聖書に手を置き、神に誓う。これでウソはつけない。神にはウソはばれるのだ。日本人には神に誓った際の心理的重圧は分からない。

 しかし、神はその意図を説明してくれない。したがって神が作った、この世界を精査することで、神の意図を探ろうとする。科学を生み出した、ひとつの根本的な動機がこれだ。

 仏教には絶対的な権威者はいない。本来は、釈迦の境地に近付こうとする弟子たちの集団から出発した。さまざまな「とらわれ」から自由になろうとする、きわめて内面的な欲求である。もうひとつキリスト教と異なっているのは、輪廻転生を前提にしている点だ。解脱しない限り、生ある者は何度でも生死を繰り返す。悪い方向にも進むところが恐ろしい。キリスト教はこの世が一度限りの試験で、最後の審判を待たなければならない。やり直しはきかない。ここで永遠が決まる。これのほうが恐ろしい考え方である。

 今、我々はこうした人間を超えた絶対を信じている人たちと付き合っている。何も中東のイスラム教徒の自爆テロにまで飛ばなくていい。先の中国との戦争も、アメリカとの戦争も、相手の信仰と向かいあわずに、もっと言えば、絶対を持っている人たちの強さを考えずにぶつかったため、目算が狂ったのではないか。この「分からなさ」が過去には切支丹への過剰な恐れを抱かせ、明治以来数多の「日本人論」を生み出した。西洋の流行思想、学問に飛びつくのも、西欧が世界の中心にいるからという感覚と共に、思想自体に意外性を感じるからだろう。

 日本人が「絶対」に近づいたこともある。よくいわれる浄土真宗の他力本願の思想は確かに似ている。しかし、戦国時代の弾圧もあり、萌芽のキリシタンを含め、開花しなかった。近代の天皇制も絶対に近いが、日本だけで普遍性に乏しかった。日本人が絶対を信じている人を分からないのと同様、たとえばイスラム教徒は日本人を理解できず、不気味さを感じるだろう。「未開」ととらえるかもしれない。ここでは、分からないことを認めながら、互いの生き方を尊重する以外に共存する方法はないのだろう。

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