1-4 歴史を変えた律令国家の神話

 大化改新はどこが画期的だったのか。

 大化以前のことは本当に分からない。史料がきわめて少ない。利用できるのは、記紀のほか、中国の史書、古墳、古墳から出土した鉄剣くらい。一次史料である鉄剣がでた古墳は三つある。埼玉県稲荷山古墳、熊本県江田船山古墳、島根県岡田山一号墳。稲荷山、江田船山からは、鉄剣の象嵌文字から、ワカタケル(雄略天皇、5世紀後半)の時代に大王(おおきみ)朝廷には杖刀人、典曹人という役職があったことが分かる。「人」制と呼ばれる。岡田山のほうは銘文に「額田部」という文字があり、「部(べ)」制度があった証拠になる。6世紀後半のものらしい。

 5世紀(いわゆる五王の時代)と、継体朝に変わった6世紀では王権の組織に変化があった。5世紀の到達点は雄略天皇(在位457~479年)の、宋書に載っている上表文(478年)に示される。この上表には「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らぐること95国」とある。北(朝鮮だろう)の95国は文飾だろうが、東西はそれなりの根拠があったのではないか。次々と戦争に勝って、地方の中小豪族の領地に名代(なしろ)を設定していったのだろう。名代とは大王の官人に対して生活の資を貢納する地方の品部(しなべ)である。

 そもそも大王の宮廷には殿守(とのもり)などの職務を、中小の豪族が世襲する制度が5世紀前半にはできていたという。伴(とも)制である。その後、この伴を統括する伴造(とものみやつこ)の制度も現れる。5世紀には多数の百済系技術者が渡来し、彼らを品部として大王の下に組織化した。5世紀の大きな出来事としては、雄略天皇が大豪族の葛城氏、吉備氏を武力制圧したことだ。大王への権力集中を進めていったのである。

 6世紀の継体朝に入ると、屯倉(みやけ)が増えていく。屯倉とは地方豪族(国造=くにのみやつこ)の領地に設けた大王家直轄の、物資調達などの拠点である。有名なのは九州の大豪族・磐井の反乱を鎮圧(528年か)した後、磐井から屯倉を提出させたことだ。大王権力はまた一つ強化された。その一方、大王の職務を分担する大伴氏、蘇我氏などの豪族が管理する人々を「××(豪族の名)部」とするなど、連合王権のような制度も存続している。「部」制度であり、これは6世紀を通じて王権の基本組織だった。地方組織としては、直轄の屯倉、豪族の支配にゆだねる「××部」という二本立ての体制だった。

(この大化前代の社会組織は様々な論考を読んでも、実に難しい。部などは具体的なイメージがわかない。天皇陵を含め5~6世紀に造られた古墳を学術調査して、もっと一次史料を集める必要があるだろう)

 7世紀になると、中国の唐の成立を核とする国際情勢の変化から、倭でも権力集中を急ぐことになり、乙巳の変(645年)が起きた。豪族のトップである蘇我氏を滅ぼしたことで、大王への権力集中の枠組みが完成したのである。もはや豪族たちと手分けして、「部」によって人間集団を統括する必要はない。さらに大王一族、豪族の私有民も解消し、一般の人との区別をなくした。人民と大王の間に入る豪族の権力が消えた。

 しかし、豪族を組織化して自らの下に位置づけ、武力・技術力により支配領域を拡大していくのは、権力の「本能」に基づく自己運動だろう。変哲のない権力闘争だ。大王(おおきみ)の字が示すように、まだ天孫というイデオロギーは生まれていなかった。

 大化改新は乙巳の変から始まり、古事記の成立(712年)で完結する。天孫降臨の神話が画竜点睛である。この神話によって大王は天皇という高みへ飛躍した。支配の正統性を創造したのである。同等者の中の第一人者だったら、国際関係、国内の政治的、経済的変動により、その地位が揺れ動く可能性がある。しかし、「神の子孫」であれば、他は追随できない。次元が違うのだ。この神話を豪族たちが受け入れれば、安全至極である。

 その後の歴史を見ると、天孫神話を王朝貴族ばかりでなく、武士も庶民も受け入れた。神国の観念は日本の柔軟性を奪った。呪縛といっていい。見事な「発明」だった。その計画者は藤原氏だったのだろうが、歴史を変えた「天才」がいたのである。

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