3-7 法の執行のため主従制が普及

人間社会に争い事はつきものである。鎌倉時代に御家人同士の争いが起きたとき、頼朝が争っている二人を前にして、互いの言い分を聞いて決裁する場面が、吾妻鏡に出てくる。

問題はここから始まる。負けた側が素直に従えばいいのだが(例えば相手の領地から出ていくなど)、負けた側が「撤退するのは嫌だ」と居座ったらどうするか。勝った側が力によって相手を退かすしかない。いわゆる自力救済である。相手が強力だと裁判に勝っても、歯噛みして泣き寝入りという事態も起きる。これでは不合理だということで、鎌倉時代後半には紛争地に御家人を二人派遣し、判決に従わせる方法が導入された。

 室町時代になると、もっと組織的になり、鎌倉幕府の判決は当事者に言い渡すだけではなく、紛争地のある国の守護にも連絡する。細かく言うと、幕府の管領(事務方のトップ)が守護に「施行状(しぎょうじょう)」という文書を出す、これを受けた守護は守護代に「遵行状(じゅんぎょうじょう)」を渡す。守護代はさらに守護使に文書を出す。この守護使が紛争当事者のところに出掛けて、判決に従わせるのである。守護使は仕事が終わると、守護代にきちんと任務を終えましたという「請文(うけぶみ)」を提出する。

 こうして自力救済ではなく、法の支配が実現していく。こうした裁判は、幕府だけでなく、鎌倉時代から地域社会では守護も行っていた。その判断の根拠になるのが「御成敗式目」だった。こうした地域の裁判の史料は多くないが、たとえば中山法華経寺に残された、有名な日蓮の聖教の紙背文書には千葉氏の裁判記録が残っている。

 大事なのは、幕府→守護→守護代(守護使)→紛争当事者(御家人)という命令系統が成立し、それが固定化することで、守護→御家人・国人の間に主従関係が生まれてくることだ(被官化という)。鎌倉時代の守護は、朝廷を守る大番役を派遣する、謀反人・殺人犯を捕まえるという三つの権限・義務だけが課されていたが、室町時代には刈田狼藉も捕まえる対象に加わるなど、守護の権限が拡大し、主従制が広がる環境が整っていく。

 もちろん合戦に勝利することで、負けた相手(あるいはその家臣)を自分の家臣にすることもあった。ただ、こうした派手なことでなく、社会生活の中からジワジワと主従制は浸透していった。鎌倉時代初期には御家人は所領の大小にかかわらず、互いに平等であった。中心にいる鎌倉殿に結び付いていることで、武家の秩序が成り立っていた。しかし、室町時代になると御家人の間が構造化していく。一国単位で他の御家人を被官化していけば、将軍がいなくても地域秩序は十分に保てるのである。これが守護大名である。

そしてこの秩序の中から、守護代が守護に替わる「下剋上」が起きてくる。守護大名はまだ「名門」出身者が多く、その意味で、古代の神話世界との連続性も見られるが、下剋上は、統率力、経済発展の方向性への先見力など、実力の世界である(のちに名門を出自とする系図を作るが)。これが戦国大名であり、全国的主従制を作る戦いをしていく。

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