3-15 「組織原理」再考――自治、共存の伝統

 大化前代、律令国家、武家国家、近代国家という、大きな括りで歴史の変化を眺めてきた。政権(統合の価値体系)の変遷は、社会がエリートを受け入れる基準の変化でもあった。ただし、政治権力に焦点を当てるだけでは、大事な視点が抜け落ちてしまう。歴史には「政治権力」とは異なる組織原理もあった。それが人々の共存基盤を支えた。

 江戸時代は農民が人口の8割を占めていた。当時、農村は主従制の武家支配のもとで、自身は主従制とは異なる仕組みを築き上げていた。こちら側で生きる人々が圧倒的に多数だったのである。それは非暴力の「自治」「共存」原理である。城下町にいる武士とは別の、農村という空間。農村は、農業という大産業の「工場」そのものだった。水利を中心に協働のシステムが成立していた。したがって、個人の勝手は許されない。集団の強制、異質者の排除など、窮屈な社会だが、相互援助があり暴力におびえる必要はなかった。村落運営の中心の名主(庄屋)も何軒かが交代で勤め、監視の目があり会計は透明だった。

 こうした、いわゆる「共同体」は鎌倉時代後期から江戸時代の終焉まで、600年以上続いた。いまも我々、多くの非エリートの日常生活は、権力とは無縁な平等性、相互依存、相互理解に基づいている。「権力」はその上に浮かんでいる。江戸時代の農業などの共同体は、長い時間をかけて作り上げられた。その変遷は日本の歴史そのものといっていい。

 農業制度という点では、律令国家の公地公民(口分田制)から記録が残っているが、その実態はよく分からない。言えるのは、農民に一定の耕地を指定して、そこを耕作させる。一部農具は貸与されただろうが、自前の農具が何だったかは分からない。当時は同じ耕地を長く続けて使用すると収穫が落ちるため、しばしば担当する耕地が変わったという。こうした状況では、農民が集落を作るメリットは少ない。代わる農地の所在地に合わせて身軽に住居を移したほうがいい。農民が自ら集落を形成する動機は乏しかったはずだ。

 律令では位階をもった官人に対して、季禄(春秋)として鍬(くわ)を与える。鉄製の鍬は貴重だったのだ。位階ごとに支給された田を耕すため、官人は鍬を農民に貸与していたのだろう。農民は、鍬を使ってみて、自分のものにしたかったはずだ。

 さらに約100年後、朝廷は「征夷38年戦争」を強行した。続日本紀の延暦2(783)年4月15日条では、陸奥に派遣した幹部が戦争をせずに、現地で「多く私田を営んでいる」と桓武天皇が怒っている。進んでいた畿内の農具、農法を実践して、東国中心の兵士も技術を学んだはずである。怒るより、褒めるべきだったのかもしれない。

 固定した自分の耕地ではなく、請負耕作をする農業はかなり後まで続いた。律令の口分田制度が崩れ、荘園が税を吸い上げる仕組みに加わり、制度は変化した。しかし、11世紀ごろの荘園も、以前と同じく農民の請負耕作の体制は変わらなかったらしい。ところが、荘園の立券が増えだす院政期になると、農民が耕す田圃の固定化が始まる。そうなれば自分の耕地に近い場所に住居を定めたほうが便利だ。こうして従来散在していた住居が集中していき、村落を形成するようになっていく。第一の変化、農村の出現である。

 鎌倉時代になると、農村に牛馬など農耕用の家畜、鉄製農具が普及する。水利、肥料用の草木の調達などの共通利益のため、集落の農民は協力関係に入っていく。やがて地縁による共通の神を祀る神社、あるいは寺院などを整備して、結束を強めていく。鎌倉時代後期には、「地下請(じげうけ)」という、領主の介入を避けて村落自体が税をまとめて納入する方法が始まる。村落は自ら運営ルールを定め始める。「村掟」である。この例は、「日本思想大系 中世政治社会思想(下)」(岩波書店)にずらりと並んでいる。

 中世の農村の特徴は、中に武士がいて、農民も武装していることだ。有名な滋賀県の箕浦荘と大浦荘の領地紛争では、武力衝突した永仁3(1295)年に死者が出ている。群馬県・世良田の旧新田荘には新田一族の館跡が残っている。少し前までは周囲は田圃だった。これは南北朝時代以来のものだが、戦国時代となると城跡は数多ある。田園の中に館(城)のある光景は戦国時代まで続き、その間に村落は存続のため自立性を強めていく。

 集落の第二の変化は、戦国時代の後半に大名が、土豪を含めて武士を城下町に集めた時に訪れた。村落から武士が消えた。内部に強権がなくとも、村落は自力で存続できる体制を整えていた。いわゆる「村町制論」が表す世界が出現した。その自律性の上に乗り、江戸幕府は税収を確保した。大変コストの安いやり方だった。江戸時代の、特に18世紀以降は村落の運営を記録した「地方(じかた)文書」が膨大に残っている。年貢の計算・納入、村内のインフラ整備の出費など、帳簿を次の担当者に渡して保管したためだ。いま自治体の古文書講座などで、しばしば専門家を招いて講読している。

 第三の変化は明治維新だろう。明治政府は、共同体を解体する方向に進んだ。入会地を村民などの利用権の対象として論理構成(所有権に含まれる処分権がない)するのは、「近代法」の論理からは受け入れられない。そこで入会地を地方自治体の所有にする(村民は利用を制限される可能性がある)などが代表例である。島崎藤村の「夜明け前」にも明治政府の近代化が村を苦しめる場面が出てくる。共同体の解体により、吐き出される人員は若者を中心に兵隊、労働者に変わっていった。こうしたプロセスが100年以上続いた結果、住民の高齢化もあり、もはやムラ共同体は消滅寸前である。

 しかし、村が担ってきた自治、相互扶助の伝統は、個人が犠牲にならない形で生かし続ける必要があるのではないか。「自律」「自治」「平等」「協働」の思想はけっして古くなってはいない。明治以来の、「正義はすでに開示された」とばかりに断言する権威主義、現在勢いを増す能力主義(それに連動した富の偏在)が、冷たい、人間味のない社会をもたらしている面がある。それへのアンチテーゼとして、これまで日本社会を支えてきた「伝統」的な組織原理があることを思い出しても無駄ではなかろう。

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