1-11 組織原理の古代・中世・近世・近代

 組織原理が神話秩序→主従制→能力主義と推移して、現代は能力主義全開の時代である。しかし、これだけでは現象を述べたにすぎない。それがなぜ起きたのか。しかも、それぞれの「原理」の運営には当然変化があった。それらを少し細かくスケッチする。

 「神話秩序」は7世紀~13世紀までの500年。奈良時代から院政期まで。それまでの豪族連合的なヤマト権力集団から、大王(天皇)を人間を超えた神の高みに持ち上げた。その下に官僚制的な組織作りを開始し、天皇を中心とした豪族集団の永続化を図った。

 なぜこの時期に権力を集中しなければならなかったのか。朝鮮半島では7世紀に入ると、強大な隋・唐がしばしば高句麗などを攻めており、ヤマト勢力は軍の強化が課題だった。蘇我本宗家を滅ぼしたことで、天皇家に対抗するヤマトの土着勢力がいなくなり、支配力の強化に弾みがついた。こう説明されることが多いが、実はよく分からない。

 神話秩序の第一の転換期はいわゆる王朝国家だろう。900年ごろから朝廷は地方統治に口を挟まず、国司の自由にまかせた。分権化である。広域化が進んだため、地域の性格に応じて分権化せざるをえなかった。国司は一定の税を納入すれば義務を果たし、余剰は自分のものになり、地域支配に使えた。これ以降、国史が朝廷で編まれなくなった。

 もともとヤマト朝廷は、各地に国司は派遣したものの、最も厄介な徴税は現地生え抜きの郡司(終身)が行った。朝廷は地元の権力の上に乗る形だった。それが可能だったのは、朝廷の武力が地方権力を圧倒的に上回っていたからだろう。しかし、この優位性は鉄製武器の普及により薄れていく。地方にも富が集積し、地方権力の自立化を促進した。

 次の転換は院政期だろう。地方権力は徴税権を武器にして、実力を蓄えていった。さらに京都でも武士は存在感を増していく。大物武士は京都と地元のネットワークを形成して、情報を収集するようになった。一方、朝廷にとって、この武士の組織化をいかに進めるかが課題になった。白河法皇のときに北面の武士が設けられ、身辺警護体制は整えられたが、武士は単なる武力の担い手を超えて、政治に入っていく。

 先駆者は平清盛だろう。後白河上皇と荘園の取り合いをした挙句、後白河を幽閉した。武士の組織化にも手を付けた。朝廷は武家同士を戦わせて最高権力を維持したが、地方を含めた武士の永続的組織化には失敗した。組織化に成功したのが武家の源頼朝だった。朝廷と鎌倉殿との二重政権が成立した。それは武士の公家侵食の始まりだった。

 「主従制」秩序は13世紀~19世紀の700年間続いた。主従関係自体は公家・武家の間を含め、古くからあった。もともと家(一族)運営の仕組みだったが、武家は広域統治の仕組みに応用した。正確に言えば、領主の組織化、ネットワーク化である。

 時代は強いもの勝ちの世界である。主従制の神話に対する最初の勝利は承久の乱(1221年)である。承久記によると、後鳥羽上皇の京方の軍隊と、鎌倉方の軍隊は組織がまるで違う。メインの東海道軍。京方は大将軍19名,7000騎。鎌倉方は大将軍7名、7万騎。京方は軍の規模に比べ大将軍が多い。大軍を掌握して作戦を展開する幕府方に対し、京方は組織的というより、持ち場を割り振られた個々の武将が、独立的な戦いをした。武力が構造化されていなかった。動員力も含めて、軍事力の違いが如実に表れた。

 主従制社会の第一の転機は、南北朝の騒乱に際しての足利氏の勝利である。それまで朝廷は武士を昔のように配下に置く(=独立させない)ため、幕府に対して二人のトップが反撃を試みた。後鳥羽上皇、後醍醐天皇。しかし、1392年に南北朝が合流して北朝が天皇家になると、南朝方の武家vs室町幕府の武力対立が意味を失い、それ以降武力対立は天皇家と無関係になっていく。中世には、武士の忠誠の対象が天皇から主君に移行していった。何しろ武士の主従制は全人格的な忠誠を要求した。もちろんそれを支えるには一族に対する「社会保障」が必要なのだが。結局、朝廷は武力闘争から排除された。

 第二の転機が江戸幕府の成立である。戦国争乱を通じ、徳川家が他の大名を制圧する形で「統一政権」が成立した。ただ、諸大名は幕府に臣従するものの、国(藩)内支配に関しては独立的な権限を持っていた。幕府は朝廷も広い意味での幕府組織の中に吸収した。

 平和な時代になり、戦闘者としての武士は機能的には失職した。戦は弱くても文書能力が高い人が重んじられた。しかし、主従制は官僚制を支える原理として生き残った。主従の絆が単なる役割行動に化していった。もはや実力により大名になる家は生まれなかった。関ヶ原を経験した大久保彦左衛門は、三河物語の中で時代の変化を寂しく回想している。

 特に享保の改革以降、幕府の制度が整備されるのと並行して、主従関係は世襲官僚制そのものに移行した。この世襲官僚制は新陳代謝を阻害した。身分・家格により適材適所の組織ができず(個々の抜擢はあったが)、幕末の黒船以降の対外政策、社会変化に対応できなかった。攘夷を叫んでも、藩を超えた単位での対外戦争ができなかった。政府の収入が米(コメ)という価格不安定な財では長期計画も作れない。

 そして明治維新により身分制・世襲制が消えて「能力主義」が全面的に採用された。ただし、統一政権を生み出すうえで、天皇親政の形をとったため、身分制を完全には放棄できなかった。政府を主導したのは「維新の功臣」だった。その後高等教育制度が整備され、能力の高い人材が政府、軍隊、企業のヒエラルキーの上層を占めていった。

 しかし、その秀才組織が運営した結果がアジア・太平洋戦争の惨劇だった。大失敗である。他からチェックされない「天皇の軍隊」が暴走する危険性は初めからあった。「自分が抑える」と考えた元勲も年老い、死去していった。そもそも明治国家は能力主義と神話秩序の不自然な結合体で、合理的行動を阻害する因子を内包していた。

 敗戦を契機として、第一回目の転換を図らざるをえなかった。それが戦後民主化という一連の大改革である。すぐに組織的な欠陥は、制度としては改善された。それから70年以上過ぎ、明治以来の西欧に追いつくという目標は、経済に限って見れば十分達成した。 

 では、能力主義は貫徹しているのか。基本的には能力主義の社会だが、世襲議員が多すぎるなど、適材適所を実現するための、人材の流動化に問題が残っている気がする。議員に限らず日本の組織は、過去の成功体験を共有する「小さな満足」の集団に落ち着き、人事が固定化していく傾向がある。悪くすると、少数の「仲良し」が権力を独占して退嬰的になる。こうした傾向が強まっていくと、いずれ第二の転機が避けられなくなる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメント

お名前 *

ウェブサイトURL