はじめに

 昔、学生時代に感激して聴いた政治思想史の講義がある。その中で教授から「何処から、何処へ」という言葉を教えてもらった。政治思想の分析に、こうした悠久の歴史を踏まえるという観点を入れないと、大思想家の真意が捉えきれないという話だったと思う。そのとき「人間に関して、こういう究極の問いがあるのか」と、鈍感な学生は驚いた。その後、画家のゴーギャンに、「我々はどこから来たのか、 我々は何者か 、我々はどこへ行くのか」という題の傑作があることを知った。これだけ究極の問いを並べられると、圧倒され答えられない。無力さを感じざるをえない。

 究極の問いにはもう一つある。「何処へ」と重なり合うが、「何のために」という問いである。この答えとしては、キリスト者なら「地上に神の国を作るため」と言うのだろうが、この領域に入ると、途方に暮れている自分を見出すばかりである。

 「何処から、何処へ」に限っても、こうした発想を一喝する考え方がある。典型的なのは哲学者のニーチェである。歴史の拘束性から脱して「生」の開花を謳いあげた(「反時代的考察」)。人間が歴史とかかずらっていては不幸になるだけで、現実を変えることすらできないという。歴史への呪詛と言っていいだろう。しかし、そのニーチェがいまや哲学史の中に押し込められている皮肉が起きてしまった。歴史はこの世のすべての事象を呑みこみ、歴史の中に位置づけていく。この魔力からは逃れられないのだ。

 子供の頃、「時代が進むにつれ、歴史の勉強はどんどん覚えることが多くなり、未来の人たちは大変だなあ」と思った。そのうち「現在が分かるために歴史を勉強するのだ」と思った途端、歴史から興味が薄れ、高校時代には日本史の教科書を試験前しか開かなかった。しかし、社会人として活動し、世の中を見ているうち、歴史の拘束性を自覚しないと、選択を誤ることがあると気付いた。「そんな程度のことが分からなかったのか、本当に愚鈍だな」と自分でも思う。後悔しても始まらない。ここでは「何処から」という問いに対して、ささやかな答えを試みた。表面的であることは十分自覚している。しかも、グローバル時代に日本限定である。ささやかすぎる答えである。