院政期とは、普通、後三条天皇(1068年即位)から後白河上皇(1192年死去)までの120年ばかりを指す。鎌倉時代の前、摂関期の後、上皇が政治の中心になった。愚管抄の中で慈円は、保元1(1156)年の保元の乱後、「ムサ(武者)ノ世」になったととらえた。
この時代、特に鳥羽院(1156年死去)のときに荘園が急増した。中には一国の郡よりも大きい、巨大荘園が出現し、内部に公領を含んでいるものもある。中世荘園の発生についての議論は1990年ごろに大きく変化した。以前は、地方の武士が農地を開発して中央権門に寄進し、同時に荘官に任命してもらう。税負担を安くする、権門の力により国衙が手を出せないようにする、などと説明された。長く高校の教科書では、「寄進地系荘園」の典型例として、東寺百合文書にある、肥後国「鹿子木荘」の事例があげられてきた。
しかし、荘園について誤解が多いと専門家はいう。そもそも農地を開発する領主からして、地方の零細武士ではなく、中央とつながっている中下級貴族のことが多い。「鹿子木荘」は訴訟文書に載っており、寄進(と主張する)の約200年後に作られた文書である。「鹿子木荘はもともと私のもの」という主張であり、本当に寄進されたのか分からないらしい。こうした荘園の議論は具体例が必要であり、この短文では無理である。内容も複雑なため正確なことは、鎌倉佐保、高橋一樹氏など専門家の著作に当たったほうがいい。(参考文献は、岩波講座「日本歴史中世1」2013年、「日本の時代史7」2002年、吉川弘文館、高校教科書については「歴史評論」710号=2009年6月)
要は、中世荘園の形成は寄進から起動するのではなく、院が主導して在地秩序を再編したものだという。院が再編した荘園の荘官になるには、中央での人脈・情報収集力がモノを言った。院主導の再編の狙いは公領拡大→税収拡大にあった。有名な後三条天皇の延久の荘園整理令は、内裏再建のための一国平均役を公領に賦課するために、公領と荘園を切り分ける必要から打ち出された。この時期、上皇・女院は豪華な御願寺を建てた。上皇の六つの寺には「勝」の字が入っており、六勝寺と称された。このほか、内裏再建、熊野詣なども膨大なコストがかかり、その資金調達のため荘園の再編を実施した。
荘園整理令は延久1(1069)年、承保2(1075)年、保元1(1156)年など8回ばかりだ。多くは書類不備などの荘園、あるいは一定時点以降の荘園を停止するといった内容だ。しかし、荘園は増え続けた。瑕疵を指摘される前に院に寄進する、駆け込みも起きた。再編の際に、さらに自分の別の荘園を加えて寄進することもあったという。
こうして以前の免田(税を減免した農地)の集合のような荘園から、山川・村落を含む領域型荘園が形成されたが、現地領主(預所など)は都とつながりを持つ中小貴族が多かった。武士は武力を生かした治安維持などを担当するなかで、家来(郎等)として地元の武士のネットワーク化を進めた。地域内に命令を浸透させるのに、主従制は大変有効だったのだろう。しかし、農場主から地域リーダーに脱皮するプロセスは多様らしい。
例外的に分かりやすいのは、上野国新田荘だろう。元仁2(1108)年の浅間山噴火により荒廃した地域を、源義重(八幡太郎義家の孫)が地主職を得て再開発に取り組んだ。そして保元2(1157)年に19郷を鳥羽院に寄進して、荘園の下司職を得た。ちなみに領家は院近臣の藤原忠雅(のち太政大臣)である。しかし、たとえば鎌倉御家人の代表格である千葉、小山、三浦氏は、在庁官人だったことは分かるが、下司職といった荘園での役割ははっきりしない。それでいて鎌倉時代になると地頭になっているのである。
千葉氏は元永年間(1118~1120)に領地を鳥羽院に献上し、それ以降は「当荘(千葉荘だろう)検非違所たり」という。治安維持の役割をしていたらしい。小山氏は久安6(1150)年に下野小山荘に移り、後白河院に寄進し、のち院が伊勢神宮(1166年)に寄進したため寒河御厨になった。三浦氏は「天治(1124~1126年)以来相模国の雑事に相交わる」。雑事とは雑務(民事訴訟の裁判)だろう。同時に検断(刑事事件)も在庁官人として命じられたという(いずれも吾妻鏡承元3年12月15日条)。
この時代は知行国制度が導入された。知行国制度とは、上皇など院、摂関家、武家棟梁などが、ある国に関して受領(国司)の推薦権を持つ制度である。受領は、大変儲かるため、推薦者に当然「お礼」をする。これが院をはじめ各権門の収入になった。東国では受領に任じられる武士もいた。武士の中には荘官として税を本所に送るほか、一族を京都に派遣し、人脈形成・情報収集をする人もいた。白河上皇は護衛のため康和5(1103)年ころに「北面の武士」制度を作り、京武者を武力として採用した。
公領では在庁官人という名の武士が徴税して国衙に渡す。その働きは荘官と変わらない。荘公とも税を吸い上げるパイプの、収穫現場に近い部分に武士が入り込んでいた。体制の基礎を武士が担うようになった。武士を利用しないと、徴税が円滑に進まず、中央権門自身が困る。農民たちは誅求がゆるい僧侶、公家が荘官になることを望んでいたのだが。
天皇家では上皇が積極的に荘園を増やした。しかし、天皇は直接、荘園を保有しなかった。荘園は「私」の領域であり、公地公民の建前からは否定すべき制度だ。こうして天皇は権威を守った。しかし、権威だけでは一族の収入が不足する。そこで上皇(原則として前天皇、現天皇の父)が権力・経済活動をする分業体制を作った。これにより摂関家の力を削ぎ、武士を操ることもできた。
しかし、本当の敵は徴税を請け負い、地域支配者になっていく武士だった。上皇は荘園を通して武士を育てていたのだ。朝廷は自前で税を吸収するシステムを再建しようと考えなかったのだろうか。のちの展開を考えると、荘園を集積している場合ではなかった。荘園を利用するにしても、現場を押さえる荘官人事を本所に任せず、介入できるようにする手もあったはずだ。実際には、院政期には、武士が将来敵になるとは考えられないほど、朝廷・公家と武士の実力格差が大きかったのだろう。