武家の時代は、鎌倉時代、室町時代(応仁の乱までとする)、戦国時代の平均は約140年である。ところが江戸時代は250年と圧倒的に長い。しかし、当然徳川幕府も平穏な道ばかりではなかった。家康は嫡流を幕府の将軍にして、その兄弟を御三家として、幕府を囲む体制を作った。その嫡流は7代将軍の家継が満7歳前に夭折した。ここでよくあるパターンは分家同士の家督争い(御家騒動)だ。御三家と二代将軍秀忠の子孫の保科氏の争いになっても不思議ではない。ところが大きな争いもなく、老中たち、さらに大奥の支持もあり、次の将軍に紀州藩主の吉宗を抜擢した。1716(享保1)年のことである。
この吉宗が傑物だった。傑物といっても、旧来の武家とは異なる、近代的な組織作成者という意味である。彼はよく知られる享保の改革を主導した。この改革は幅広い内容を持っているが、ひとことで言えば、江戸幕府を近代国家につながる体制に変えた。当面の課題は幕府財政の再建だったが、これは緊縮財政、新田開発による税収増加、増税、大名の献金(上げ米)など常識的な施策で対応した。成果もそれなりに上がった。
吉宗のすごさは、未来を見据えた施策にある。1721(享保6)年には初めて人口調査を開始した。統治の前提である基礎情報を数値で把握しようとする。近代的だ。
幕府始まって以来、人口は急増し、耕地も増えた。経済の発展はそれまでになかった争いを生む。それだけ行政、司法は業務が大変になる。組織的な対応策として、幕府の中核組織の勘定所の改革から始めた。
勘定所は勘定奉行下で幕府財政、幕領の代官による年貢徴収を指揮する。1721(享保6)年、公事・訴訟を受け持つ公事方、年貢・普請などを受け持つ勝手方の二つに分割し、それぞれの業務を明確化した。その一方、1723(享保8)年にはそれまで上方と関東と二本立ての組織だったのを一本化した。その職員として、組織生え抜きの専門家を増やしている。家格にこだわらず能吏を教育した。結局、勘定所の人員は大幅に増加したが、業務の遅滞を回避するためには必要なことだったのだろう。
こうした勘定所の業務を支える公文書管理のシステムを吉宗は一新した。新たに作ったと言っていい。1720(享保5)年には江戸城内にある公文書の調査を開始した。2~3年かけて、その総数9万4200冊を確認し、種類別の目録を作成させた。これは、あの太田南畝(狂歌師蜀山人)が「竹橋余筆」に書き残した。
1723(享保8)年には整理は終わった。その文書の種類とは、郷帳、年貢、普請、地方勘定、上知、知行割、金蔵勘定、貸付金勘定、島勘定、禁裏勘定、川船勘定、木材、金銀山勘定、金銀吹方勘定、長崎金銀勘定、城詰米、酒造米、検地帳、反別帳、人別帳、諸証文、高札写、条目請書、国絵図など。こうした勘定方(幕領のなどの会計を担当)の文書は年別、類別、郡別にまとめられ、過去との対比が容易になった。担当者の私的帳面ではなく、幕閣が見る書類が整備され、財政の骨格の推移と現状が分かるようになった。(文書行政については大石学教授の研究に依存している)
勘定所だけでなく、裁判を担当する評定所でも、文書整理が行われた。1720(享保5)年に三奉行(寺社、勘定、町)に刑罰の基準を定めて書き記すように命じた。判例を整理し、法典を整備しようとした。しかし、訴訟内容が複雑化し、訴訟の件数が増える中で作業は時間がかかった。成果は1742(寛保2)年に完成した「公事方御定書」である。近代法学でいう「判例」の誕生である。
こうした文書整理・法整備は、行政・司法の事務の流れを変えていく。法の支配、官僚制度である。事務能力に応じて昇進した人の家禄が、役高より少ない場合のため、「足高」により給与を加算する制度もつくった。幕府の効率化、近代化は格段に進んだのである。
もちろん、こうした行政・司法の改革で幕府が盤石になるわけではない。実際、1732(享保17)年には、伊勢・近江以西で蝗害(こうがい)が発生した。イナゴ・ウンカが大発生し、農業が大打撃を受けたのである。こうなれば幕府も対策の支出がかさむ。財政再建も逆戻りせざるをえなかった。江戸で「打ち毀し」が起きるなどした。自然に左右される農業国家の弱点は、政治の力では対応に限界があった。
しかし、改革により、裁判も行政も、担当者によるブレが抑制され、公平性が確保される。1750年の幕府の姿を1600年のそれと比べると、まったく別物である。新しく幕府ができたのである。戦国の殺伐とした雰囲気を残す武闘派の多かった100年前と、戦より文書作成の巧みな頭脳派優位の社会への移行は、平和の時代には避けられなかった。100年の経験を幕府は財産として活用し始めた。
吉宗は就任の頃、「権現様の御代の格式は省略しない」と宣言したという(兼山秘策=室鳩巣の手紙を集めた文集)が、この格式とは主に「身分や家柄によって公に決められていた儀式やきまり」(日本国語大辞典)を指し、それ以外の本質部分は大胆に新施策を導入していたのである。これで徳川幕府は異例の長い武家政権になったのである。それは能力主義の官僚制を導入した明治維新につながるものだった。その意味では、明治は政府制度としては「維新」という断絶より、「連続」の面を色濃くもっていたのである。