明治維新は天皇制を大きく変えた。江戸時代も天皇は官位を授け、その礼金は重要な収入源だったという。もともと武士は朝廷の官職に憧れ、官職が好きだった。位階は公的に認知されたステータスととらえられ、しかも全国的に横比較のできる唯一の指標であり続けた。しかし、古代から天皇を支え続けてきた太政官制度、したがって朝廷そのものが消滅した。当然、摂関以下すべての官職(内匠頭などの職)、位階(一位などの位)が消えた。古いものを残すのが好きな日本人には稀な、強烈な選択だった。
鎌倉初期に頼朝は御家人に対し、無断で任官することを厳しく禁止した。放置すると、猫も杓子も任官し、御家人の忠誠の対象が鎌倉殿だけという構図が脅かされるからだ。南北朝・戦国時代には、土豪さえ受領名(相模守など国司の名)を、明らかに無断で名乗っているケースがあった。その官職により、社会での位置付けが表されるととらえたからだ。これは頂点にいる天皇との距離(遠近)を表した。天皇は座標軸であり、身分の源泉だった。だから多くの系図は、ある天皇、公卿を遠い祖先として設定する。高貴な血を「証明」するものなのである。系図は大昔から積み上げて形成されるものではなく、むしろその系図を作る「現在」を表す。だから時代に応じ、先祖が変わることも起きるのである。
内藤湖南氏が言うように、応仁の乱以前からの家が減り、江戸時代は新興勢力が社会層の多くを占めていた。そこで伝統的な権威による保証が必要だった。徳川(松平)氏は元々、三河の土豪だったが、将軍になってからは清和源氏の新田氏の流れを汲む家柄ということになっている。北条本吾妻鏡には得川氏という御家人が出てくるが、原型に近いと言われる吉川本ではその部分が世良田氏になっている。これは新田氏から分立した実在の一族だという。東武伊勢崎線の駅にある世良田が名字の地である。その世良田氏の部分を書き換えたらしい。徳川氏は「名門」だから幕府を開けたわけではなく、実際の秩序形成力がトップに押し上げた。ただ、実力で形成した武家の地位は、出自、位階秩序とパラレルとなることで、家格として安定感をもたらす。天皇制は位階の授与を通じて、社会に安定感を与えてきた。武家は支配の正統性を証明するため、古代以来の伝統的権威を必要としたのだ。なぜ、そんなに武家は自信がなかったのだろう。
明治時代、身分制度が消滅しても、天皇家だけは過去の権威を維持した。天皇は尊皇主義者からいえば古代絶対君主の復活だが、実際には明治からは身分制度とは別の次元で存在意義を見出した。伊藤博文が「憲法義解」で説明している。すなわち「国家の機軸」としての天皇が構想された。西欧のキリスト教に当たるものとして、新たに定義しなおされたのである。まさに信仰としての天皇を制度化したのである。国民を統べる中心としての天皇に対し国民は「赤子」と見なされ、臣民、皇民になったのである。
そして見事に伊藤たちの狙いは当たった。組織的な教育効果もあり、天皇の求心力は拡大の一途をたどった。しかし、絶対君主を設定したことで、政府の中にチェック・アンド・バランスが働かない、空白領域ができてしまった。その結果、軍の暴走を招き、日本は自国もアジアの他国も不幸にしたのである。この明治の組織体制作りは維新の失敗に数えていいかもしれない。天皇制は敗戦直後の昭和22年に役割を変えて、平成の現在まで続いている。この天皇制では、天皇は基本的人権が大幅に制限されている。表現の自由などはないに等しい。敗戦から70年以上過ぎたいま、人間としてもっと自由を享受できる制度は考えられないのか。明治維新を強行した、あのラディカルな改革を遂行した大久保たちなら、どう変えていくのだろうか。