有名な「薩摩・長州盟約」は、幕府の第二次征長(慶応2年6月7日)を前にして結ばれた。史料的は、木戸⇔竜馬の手紙(返信として竜馬の朱の裏書あり)、木戸が書いた「薩長両藩盟約に関する自叙」(木戸孝允文書8巻20)である。手紙は宮内庁書陵部にある。現物を見た人によると、「想像したより、きれいすぎる気がする」とのことである。
木戸の自叙によると、次のような経緯である。「慶応2年(1866年)1月5日長州の本戸孝允が上京したが、長州と薩摩両藩の合意はなかなかできなかった。しかし、ある日、西郷が将来のありようを六カ条の約束にまとめた。そこには坂本龍馬が陪席した。その内容の確認のため大阪から竜馬に手紙を送り、竜馬から返事が来た。この話し合いがあったのは、京都を発つ前日だった」。しかし、藩邸の朝廷担当者である桂久武の日記に、この前後に竜馬の名前が出てこない。久武が忘れたか、竜馬を軽視したか。このため「盟約書」を明治になってからの捏造という説すらある。木戸書簡は1月23日付。「確かに皆で合意したものである」と、竜馬が朱筆で裏書きしたのは2月5日付である。
内容を読めば、これが「倒幕の軍事同盟」を約したものと誤解することはないだろう。第二次征長戦争が始まったら、薩摩は2000名余の兵を関西に送るというのが第一条。相互に義務を負う同盟ではなく、薩摩の長州支援策である。2000余の兵を動かす権力・財力は島津久光か藩主忠義しか持っていない。家老小松帯刀が島津久光の信頼厚くても京都藩邸の一存では決められない。
だからといって、この内容が西郷などの口約束とするのも、間違いだろう。大変重要な約束だからである。この協定締結以前に藩当局は支援の大枠を決めていたと考えてよかろう。この薩長盟約はまさに両藩の組織的決定に基づき、組織人同士が正式に決めたのだろう。木戸は藩に持ち帰って、十分に説明するため、裏書きを必要とした。竜馬は木戸の書簡を京都薩摩邸に持ち込み、薩摩藩に確認をした。(伊藤博文が、こう説明している)。木戸が確認したのは、きちんと藩当局に説明すると表明しているようなものである。
その6カ条の第2~5条以下内容は、長州藩主などの官位回復に薩摩藩は努力するということに尽きる。長州藩にとって蛤御門の変の後遺症は、我々が考える以上の重みをもっていたのである。もうひとつの6条が誤解を生む。官位回復を「橋会桑」(いわゆる一会桑)が邪魔をしたら「決戦」も辞さずという。西郷が好みそうな表現だが、これは武力行使というより、はっきりした敵対関係に入るという意味だろう。
この内容では薩摩藩には直接のメリットが無いが、長州藩の存続が大事という認識があったのだ。幕府が迷走している以上、旧来からの「天皇の下で雄藩が幕府を支える構想」は、もはや非現実的になった。しかし、長州を崩してしまうと、再生の有力メンバーを失うことになる。それとも久光の頭の片隅には「(幕府抜きの)諸侯連立政権」がちらついていたのか。
長州藩は幕末には、攘夷実行での米艦砲撃、その報復の下関戦争、八月十八日の政変、禁門の変など、もめごとの「主役」を果たしてきた感がある。攘夷を素朴に追求した点が京都の公家、民衆から根強い共感を得ていた理由だろう。早くから開国やむなしという、まっとうな認識をしていた幕府には、人々を扇動するものと見えていたに違いない。怒るのも分からないではない。だからと言って、第一次征長が中途半端で終わり、長州藩が軍備充実を進めているとはいえ、なぜ第二次に踏み出したのか。本当の「敵」は外圧だという判断からは、出てこない行動だろう。
薩長盟約のように雄藩が「具体的に」連携する動きを知ったなら、あの冷静な慶喜まで、第二次征長に積極的になることはないだろう。盟約が当事者同士の秘密だったからこそ、「幕府の権威を守るため」という、よく言われる理由に説得力が生まれた。それでも、あの墓穴を掘るような戦争に乗り出したのは、やはり納得できない。