鎌倉幕府は、主従制による武家組織として出発し、承久の乱で朝廷を圧倒したところまでは、快進撃だった。しかし、この武家組織は一直線に成長を続けたわけではない。鎌倉時代末期、特にモンゴル襲来のあとには、もともと幕府が持っていた「欠点」が露呈した。
頼朝が創業したときには、鎌倉殿(将軍)が内部的には裁判を含め「独裁的」な力を持ち、それを背景に朝廷との関係では幕府運営に介入させなかった。頼朝を継いだ子息(頼家、実朝)には、御家人を統制する力がなかった。流人生活20年を通して、東国武士の生き様を十分に理解した頼朝と、お坊ちゃん育ちの子息とでは比較にならない。結局は将軍として摂関家、天皇家から「貴種」を招くことで組織防衛を図った。この貴種には、攻められない担保、一種の「人質」の意味もあった。将軍を借りてきた場合、実際の組織運営は御家人がする以外なかった。それが北条氏だった。北条氏は御家人の一つであり、他の御家人と平等だったが、執権という幕府の役職を背景に、普通の御家人以上の地位を手に入れた。
幕府の変容はなお続いた。権力は執権という役職を離れ、北条氏の嫡流(得宗)に移行した。これが13世紀半ばの北条時頼からだ。摂関家から来た将軍を核として非得宗勢力が結束しそうになった宮騒動以降は、将軍は天皇家から来るようになり、御家人との主従関係はまったく形式上のものになった。和田合戦、宝治合戦によりライバルの三浦氏を滅ぼし、北条氏の権勢はますます強くなった。だからといって御家人の主人になったわけではない。得宗被官という北条氏の家臣の中に、御家人の資格を保持している人もいたが、小山、結城、千葉、島津、宇都宮など大氏族は、独立を保っている。
体制が大きく変わるのは、モンゴル襲来のころである。二回目の弘安の役に際し、幕府は御家人以外の武士「本所一円地住人」をも動員した。非御家人をどう扱うかは、幕府創生以来の難問だったが、こと戦闘に関しては両者の区別が廃されたのである。ただ非御家人の御家人化にまで踏み込んだわけではない。義務だけが加えられた。モンゴル戦で勝った(1281年)後、得宗の北条時宗が1284年に死ぬと、弘安8(1285)年11月に、霜月騒動が起きる。北条対安達の戦闘は、安達の敗北で終わった。
この霜月騒動の意味について、定説はない。安達㤗盛が主導した「弘安徳政」をどう解するかが鍵なのだが、よく分からない。安達㤗盛の意図は、非御家人を御家人化して幕府を再構築することという説、いや御家人が増えることで、既得権を失う既存御家人の不満に乗ったのが安達という説もある。あるいは非御家人の御家人化とは関係ない御家人間の争いという説もある。ともかく、史料が少ないため、確定的なことは言い難い。
このころ、幕府の意思決定は得宗の私邸の「寄合」で行われていた。もともとは幕府の「評定」が最高意思決定機関だったが、13世紀半ばの北条時頼のときに私的な「寄合」が行われるようになり、13世紀末には「寄合」が幕府機関のようになっていた。この「寄合」が得宗の手を離れ、御内人(得宗被官)、特にそのトップである内管領が掌握する体制に変質した。得宗は決定権を失い、事務方だった御内人、特に内管領に乗っ取られた形なのである。侍所所司、得宗家執事という実務を握った強みである。
得宗・北条貞時が、権力を取り戻そうと起こしたのが、平禅門の乱である。1293(正応6)年4月22日に内管領平頼綱を襲って自害させた。たまたま鎌倉に大地震が起きた日で、その混乱もあり、貞時は成功した。貞時による得宗専制が復活し、貞時はエネルギッシュに活動を開始した。しかし、1305(嘉元3)年4月23日、内管領の北条宗方が、連署(幕府の執権に並ぶ重職)の北条時村を殺害する事件が起きた。貞時の命令だったと宗方はいう。貞時は、時村殺害は誤りだったとして、宗方とその与党を誅殺した。北条氏内部の対立がもたらした騒動だろう。これ以降、貞時は政治意欲を失ってしまう。
次の得宗北条高時のときに、同じようなことが起こった。元徳3(1331)年7月、高時は権力奪還へ内管領長崎高資を討とうとしたらしい。しかし、事前に噂が流れ、実行できなかった。結局、主人が家人に支配される姿が続いたのである。
鎌倉殿(将軍)を主人とする武家組織として出発した鎌倉幕府は、頼朝という個性で維持されていたのだが、鎌倉殿を自前で出せず、借り物にしたとき、衰退の道に踏み込んだ。得宗家、次いでその家政を握る内管領が権力を握った。御家人無視の、権力闘争である。将軍と御家人の結束力は失われた。それだからこそ、後醍醐天皇の「御謀反」に、御家人が同調したのである。太平記の鎌倉攻め(巻10)には、大物御家人が登場する。
そして変わってしまった幕府を横目に見て、「吾妻鏡」が編集された。族滅を予感しながら、まっとうだった鎌倉初期の姿を懐かしむ、北条氏の良心派がいたのである。想像するに、文人に近い金沢氏が一枚噛んでいたのは確かだろう。一方、多くの御家人は幕府を見限り、武家の将軍を待望していたのであろう。