2-2 徳川慶喜の動きを読む

 幕末の政治過程は、幕府・薩摩など雄藩・朝廷・海外勢という形で各々の年表を作成し、横に並べて動きを見ないと、すぐに混乱する。人物も同様に動きが複雑で、時に不可解に見えることがある。その代表が徳川慶喜であろう。朝廷、雄藩とツバ迫り合いを繰り広げる剛腕さ。意表を突く、その行動・思考様式・目的を推定、整理してみたい。

 慶喜は初めから内心は開国論者だった。文久2(1862)年9月、松平慶永が朝廷の圧力から破約攘夷を受け入れると慶喜と対立した。慶喜は幕府と足並みをそろえた。しかし、幕府が破約攘夷を受け入れると、10月には自分も破約攘夷受け入れに転換した。この前史を雄藩は知っていた。

 さて、不可解さの第一の例。文久3年(1863年)八月十八日の政変後、参預会議という朝義に参与する会議に主席したときである。メンバーは慶喜のほか島津久光(薩摩)、松平慶永(越前)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)の四人である。開始は元治元年(1864年)の年初。主要テーマは八月十八日の政変に関しての長州藩の処分、横浜港の鎖港問題である。紛糾したのは鎖港問題である。一度開いた港を再び閉じるといっても、商売繁盛もあり欧米諸国が呑むはずがない。ところが慶喜は天皇の意を受け、鎖港を受け入れた。四侯はできるはずがないと白け、四侯の部下の藩士は怒った。

 参預会議のメンバーには理解できない慶喜の行動である。この会議直前の文久3年12月に幕府は条約改定の交渉団をヨーロッパに派遣している。もちろん相手にされなかったが、幕府は本気だったように見える。

 慶喜にとって天皇の意向に反し、かつ徳川家にも反対する選択はありえなかった。他の大名に同調することも避けたかった。そもそも参預会議も天皇の意向のため嫌々参加したのである。こうした対立から参預会議が解体したあと、慶喜はそれまでの将軍後見職を辞して、自ら望んで禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮という役職に就いた(元治元年=1864年3月)。これは幕府の職制にはない。いわば朝臣として動きたかったのだろう。天皇との関係を強化すれば、幕府にもプラスという認識だろうか。

 第二の例は、14代将軍家茂が逝去したのち、第二次征長戦争を続行すると明言しながら、急に変わった。戦争停止の決断をした。しかも、孝明天皇が死去したのち、朝廷から征長軍の解兵の命令があったが(慶応3年1月)、それに対して明確な手を打たなかった。兵を出した藩は「どうすればいいのか」と困惑し、怒ったという。

 同じころ家茂逝去ののち、「徳川宗家は相続するが、将軍職は引き継がない」という選択もきわめて分かりにくい。徳川当主の地位と将軍位とが一体のものと考える幕臣は困惑して当然である。この真意を推測する仮説はいくつかあるが、徳川家当主は私的な判断で決めるが、将軍位は朝廷が決めるものという、原則を実施したのか。結局は天皇の勅命で将軍になり、京都に居つづけた。将軍として江戸に一度は行くのが常識的だと思うが。

 第三の例は、将軍になって後、兵庫開港について、有力諸侯9人に意見書を慶応3年(1867年)3月20日までに提出せよ命じた際のことだ。慶喜はその回答を待たず3月5日に兵庫開港を朝廷に奏請した。急いだのだろうが、常識的ではない。

 この後5月14日に四侯会議を開いた。四侯のメンバーは参預会議と同じである。テーマは兵庫開港勅許、長州処分である。初めはどちらを先に議論するかを議論しているが、結局両方とも慶喜が朝廷で粘りに粘って、一人で解決してしまった。長州処分は幕府一任という形で決着をつけた。公家たちが辟易するほどの、不眠の説得が功を奏した。この会議を開く必要はあったのか。「バカにするな」と思われて当然だろう。将軍としては諸侯の力を使いたくないのだろうか。朝廷を押さえたという意味の勝利。大久保利通など薩摩藩士たちは激怒した。

 第四は、薩摩、土佐藩の動きを読んで、先回りして慶応3(1867)年10月14日に大政奉還を申し出たこと。それにより倒幕の密勅(偽勅だった)を使うタイミングを失わせた。倒幕の理由を奪った。当然、多くの幕臣たちは激怒した。あまりにも大胆な選択のため、いろいろな解釈がある、朝廷から大政を「再委任」されると思っていたはず、という有力説もあった。そうなった場合の新たな政体について、「大君制」という大統領に似た組織を想定する説もある。同じころ、幕臣の西周が「議題草案」という政体書を提出している。慶喜はのちに「(自分に政体構想は)なんにもない」と、否定している。

 開国の勅許を得て、幕府が積み残した課題を成し遂げ、「おれはここまで」と思ったのだろう。幕府は寿命が尽きた、徳川家が存続できる唯一の方法を考えようということか。しかし、明治になっての回想の中で、大政奉還のとき「後で家来をどうしようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった」と言っている。極度の緊張状態での決断だったというのだろうが、家臣を考えなかったと、語ることに何かメリットがあるのだろうか。いくら考えても、やはり不可解な将軍である。

 第五は、戊辰戦争が起きてから、すぐに大坂城を後にして江戸に戻ってしまったこと。兵士が戦っているのに、大将として疑問符が付く。少なくとも「討薩の表」を書いた。将軍でなくとも、徳川家との主従関係が解消したわけではない。朝敵にならないですむ唯一の方法で、かつ人的犠牲も大阪城に残るより少なくてすんだのかもしれないのだが。

 

 慶喜は御三家水戸藩の徳川斉昭の子息である。斉昭は尊皇攘夷の大物と思われて、幕府も一目置く存在だった。慶喜は幼少のころから英明を認められていた。したがって、慶喜は各方面から恐れられ、疑われ、一方では期待された。彼は内心では開国は時勢と考えていた。しかし、崇敬する天皇は攘夷そのもの。幕府は開国を受け入れるのはいいが、その後の展望を描けない。したがって、苛立ちながら、役割行動にも、個人行動にも徹することができず、独断として爆発した。それが揺れの大きな行動を生んだのだろう。

 若き日に慶喜に仕えた渋沢栄一は、慶喜の宗家相続に反対したと書き残している(「雨夜譚」巻之三)。その趣旨は、幕府は家屋でいえば土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちたようなもの。大黒柱一本取り換えても保てない。しっかりした柱だとかえって倒壊を早める。慶喜公が相続するとかえって滅亡を早める。この議論を慶喜の側近トップの原市之進に話したところ、それを慶喜本人にしてくれと言われ、話す運びになったが、日程が合わなかったという。実際に話したら、慶喜は何と答えたのだろうか。

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