主従制は戦(いくさ)の中で育っていった。戦は誰でも勝つために行う。勝つ最大の要素は、相手より多い戦闘員を確保することだ。個人プレイが戦闘で有効なこともあるだろうが、合戦の規模が大きくなるほど、個人の能力のウエイトは小さくなる。組織力がモノをいう。可能な限り多い戦闘員が、統制のとれた行動をすることが、勝ちにつながる。
こうした集団行動をする姿は、「平家物語」ではまだ現れない。弓を持った騎馬武者同士が、弓を打ち合う形らしい。しかし、南北朝の「太平記」になると、合戦の参加者が増え、その数「10万人」などという描写が多く現れる。さすがに数が一桁、二桁大きすぎる気がするが、数が増えたのは確かだろう。合戦の「陣形」の話もしばしば出てくる。
多くの戦闘者を集めるのは、リーダーの力量にかかっている、兵士も命を懸けて戦う以上、勝つ大将に従いたい。源平の富士川の合戦で、軍隊同士が対峙すると、平家側から源氏側に投降する兵が次々現われる場面がある。だから勝つ軍隊には協力者が現れる。負けると周りに誰もいなくなる。木曽義仲の最後は、幼馴染の今井兼平と二人だけになる。勝てる大将を主人にして、領地を守ってもらうため、その家人となり戦に参加するのだ。
こうした関係が現れるのは10世紀ごろだという。武家が領地をもって、武具を購入する富を蓄積して初めて、成立する関係だからだ。これを支配・従属関係か、双務契約かはどちらでもいい。双方がトクになる関係を結んだ。主従制にもとづく武士団が棟梁の下に集約されていくのは「平家政権」からだろう。鎌倉時代は新恩という所領配分により「鎌倉殿」を頂点とする全国組織になった。御家人になれなくても、御家人の被官という形でその組織に参加するのである。
主従制の本質を現したのは、1350年前後の「観応の擾乱」のときである。足利尊氏・直義という仲のいい兄弟の二頭政治として、室町幕府は始まった。尊氏は「主従制的支配権」、直義は「統治権的支配権」を分担したと分析されている。具体的には、新恩給与は尊氏、裁判・領地安堵は直義である。二人が発給した下文の対象分野が異なっているのだ。
しかし、幕府は安定しなかった。もともと主従制は幕府と御家人の間で成立するのではなく、棟梁と御家人の間で成立する。したがって幕府の傘の下であっても、尊氏・直義のそれぞれを頂点とする二つの主従制が発生してしまう。その二つの間で、雌雄を決する動きが生まれざるをえない。忠誠の対象は一人なのである。共通の敵がいれば協力するにしても、一つの組織の中では、二つの主従制は両立しない。尊氏・直義が戦った「観応の擾乱」は、起こるべくして起きたのである。
全国が地域国家に分かれた戦国時代は、複数の主従制が一元化されるプロセスだといえる。高校野球ではないが、トーナメント戦のようなもので、一つずつ負けるとエントリーから脱落していく。中には不戦敗もあったが、勝ち抜き戦で最後に残ったのが徳川氏だった。しかし、決着に16世紀をまるまる使った。時間的には効率が悪い方法だったが、争いに勝つために領国の開発が進み、税制など統治方法も進歩した。
しかし、江戸時代になり、主従制は変質した。主人と戦場で戦う一体感は過去のものになっていく。何しろ敵がいないのだ。主人側ももはや大規模な新恩を与えることができない。いわば主従制的支配権を行使する環境が失われ、統治権的支配権のみが残された。主従制は官僚勤務を支える倫理として働くようになったのだ。だから満たされない。「葉隠」は佐賀の特殊な人ではなく、普通の武士が多かれ少なかれ感じていたのだろう。一時代が終わったという寂寥感。大久保彦左衛門が「三河物語」を書いたのも、同様な感慨からだ。
それからは能吏の時代になってしまった。武士は、世襲の「家格」という枠の中で、おとなしくするしかなかった。例えてみれば、モザイクで描かれた階層ピラミッド。その一つのピースとして自分の場所はある。しかし、そのピースから抜け出ることはできない。退屈な時代だっただろうが、官僚としての訓練が次の明治時代に生きた。
その官僚制のトップに天皇がきた。そこに一部、残り火が激しく燃えるように主従制が復活した。特に軍にはこの傾向があったのではないか。たとえば、明治天皇の大喪の日に殉死をした乃木希典大将、そしてまた数十年後の昭和維新の際には、純粋な磯部浅一、村中孝次という対照的な好漢(ともに二・二六事件のリーダー、刑死)に代表される青年将校たち。主従制が統治・統合制度としては終わった以上、これは時代錯誤の心情なのだろうが、そこに一種の人間らしさを見ることもできる。