島崎藤村の「夜明け前」では、平田派国学に心服する主人公が明治維新に裏切られる。一君万民の新たな世界がくると信じていたが、実際には幕府以上の専制が始まってしまった。一般論として、革命に参加した若者は十中八九裏切られる。先行して革命運動を始めるのは純粋な若者だが、成功した後はロマンのない官僚的な人物が成果を横取りする。しかも最も熱心だった一団を粛清することもしばしばだ。しかし、捨石になってしまう若者たちが、急進的な動きを始めないと、革命運動は起動しない。明治維新の場合、先行したのは尊皇攘夷運動家だろう。維新を見られなかった運動家は死屍累々。有名なリーダーだった久坂玄瑞、武市瑞山などが生き残っていたら、どんな人生を送ったのだろうか。
若者たちはなぜ命を懸けるほど、一生懸命になったのか。彼らの基礎教養というべき国学に、当時の若者の情熱を引き出す力があったと、考えざるをえない。そこで国学の巨人である本居宣長の現実対応の思想をながめよう。取り上げるのは「秘本玉くしげ」である。
この本は和歌山藩主に提出した、時事評論・政策提言である。彼の住んでいた伊勢は和歌山藩の飛び地だった。この本には神がかった部分はまったくない。辛辣ともいえる冷静さで政治を観察しており、語り口は率直、時代批判はきわめて説得的だ。要は「役人は目先の利益ばかり追求し、上の人は「重々しく」なって庶民との距離が開くばかり、町人もカネ儲けばかりに関心をもち、奢侈が目に余る。農民もその他よりはいいが、やはり奢りの傾向は同じ。そのため藩主から農民まで借財に苦しんでいる」。なかなか歯切れがいい。
執筆は天明7年(1787年)。幕府老中田沼意次が失脚した次の年だ。世は貨幣経済の浸透スピードが加速してきた。幕藩体制そのものが変質しつつあるにもかかわらず、儒者は相変わらず中国の故事などを繰り返し語る。では彼はどんな政策提言をするのかと思うと、それが何も言わない(に等しい)。「時世の勢は、人力の及びがたきところある物也」。対策としては、上に立つものが少しでも正しいと思うところをするくらい。結局は「大勢順応」の勧めに落ち着く。「人為の限界」という世界観からくる結論である。
この「秘本」が現実論とすると、原論は「玉くしげ」であり神の世界を扱う。両著は表裏一体である。「玉くしげ」には「世の中のありさまは、万事みな善悪の神の所為」のため、「人力の及ぶことに非ず」とある。が、だからといって何もしなくていいというわけではない。「行ふべきかぎりをば、行ふが人の道」なのだ。世の中を決めている神は、神代に定めたとおり、皇孫が「天下を治めさせ給ふ御政」を定めている。現実には、そうでないこともあるが、そうした場合でも神の真意は、人には分からないものである、という。しかし、現在の正論が通らないような事態は、いずれ神が正常化してくれる。しかもこの神は、日本だけの神ではない。高天原にいて万国へ徳光を及ぼし、世界を動かす神なのである。
この世の出来事は、人が決めているようで、本当は神が決めている。鎌倉時代に、慈円は「愚管抄」で、現実を決めているのは目に見えない「冥衆」であるととらえたが、本居宣長も現実を動かす神を語る。神の行動は「幽事(カミゴト)」であり、人はそれを見ることはできない。我々に見えるのは「幽事」が現実化した「顕事(アラワニゴト)」である。
本居宣長が見た現実は、奢侈追求の貨幣経済の社会である。多くの農民一揆が起きているが、彼が見るところ、上に立つ者のほうが悪いのである。幕府は享保の改革を通り越したため、組織は充実し、運営は文書化など精緻化してきた。若者から見れば、幕府は水も漏らさない統制を実施する。その巨大組織に圧倒される。閉塞感を持たざるをえなかった。
しかし、時が過ぎて、外国の船が日本の周りに近づいてくるようになった。そして本居が死去(1801年)して半世紀たつと、彼の弟子、死後の弟子たちが尊皇攘夷を鼓吹する時代になる。この状況下で本居の幽事・顕事の世界論に接したら、若者は何を考えるか。「いずれ神が時代を動かし、あるべき世にしてくれるに違いないが、何もしないのはいけないと宣長先生が言っている。ではあるべき姿に向かって突進しよう」。しかも平田篤胤は本居宣長が触れなかった、人間の「魂の行方」について語り始めた。目に見える「顕明界」に対して、神や霊魂が属する「幽冥界」を語る。ここの主宰者は大国主命という。死後には身体は消えても魂はこの世(「幽冥界」だが)に残る。社の中、墓の上などにいて安定している。我々に見えないだけなのだ。(「霊の真柱」=執筆1812年)。
もはや国学の域を脱し宗教に近い。国学が正しいと考える「皇孫が御政を執り給ふ」時代を求める直接行動を支える理論構成と言ってもいいだろう。それも「死を恐れるな」というような含意を持っている。かつて「秘本玉くしげ」は大勢順応の幕藩体制擁護論を述べていた。しかし、いまや全く逆の行動を生み出す。国学は潜在的に持っていた、権力闘争を誘う起爆力を露わにしてきたのである。