第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)は欧州が主な戦場だった。始まった時は数か月と誰もが思ったのに、実際には3年3か月余りの長期戦になってしまった。戦死者1600万人、負傷2000万人といわれる大惨事となった。工業技術の進歩で、武器の性能が向上し、武器の生産体制も進歩したのだ。
日本もこの戦いに参加した。1914年8月4日にドイツに宣戦布告した。中国でドイツを駆逐したのちは、地中海の連合軍商船の護衛などに従事した。ドイツの敗戦にともない、中国山東半島に持っていたドイツ権益、太平洋のドイツ植民地を手にした。日本の死傷者は1000人足らずで済んだ。
この総力戦は衝撃的だった。すでに総力戦体制の構築といった計画を軍部は進めていたが、実際の戦争の規模は、計画の一新を促した。日本の仮想敵国は、日露戦争後はロシアだった(「帝国国防方針」)。それが18年に、想定敵国がロシア・アメリカ・中国へ変わり、23年にはアメリカが第一に挙げられていたという。もともとの仮想敵国ロシア(ソ連)は17年の革命による混乱で、敵ではなくなった。
ただし資源豊富なアメリカと長期の戦いをするには、国内を前提にしたら計画の作りようがない。戦うためには中国大陸の資源に頼らざるをえない。すでに10年には韓国を植民地化しており、その地続きの満州が当然のようにめざす地域になる。遼東半島の先端部分の関東州は日露戦争により租借してあり、北の満州への進出への足掛かりもあった。
1931(昭和6)年9月18日、関東軍の謀略により戦闘が始まった。中央の指令を仰がず、行動を先行させた。満州事変である。全土占領後の32年3月には満州国を設立した。この大胆というか不法な決断を主導したのが、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐である。この行動に対し、軍の中央は当初全面賛成ではなかったが、事変の一年後の32年9月には、当時の陸軍のホープだった、陸軍少将永田鉄山が「あれは正義の戦い」と、主張している(「満蒙問題感慨の一端」)。成功するなら、行動した側が勝つのである。
この石原には軍人には珍しく、戦略論の著作がある。時期的には後になるが、1940(昭和15)年に「世界最終戦争論」を出版した。その中で「天皇が世界の天皇で在らせらるべきものか、アメリカの大統領が世界を統制すべきものか」とある。最終戦争は日本対アメリカで戦われ、その結果世界統一がなされるという。それは戦史研究の中から生み出された、独特な理論であり、石原が信仰する、日蓮も予言しているというのだ。
石原は世界最終戦争に勝って、日本(東亜)が世界を統一するのをめざす。その戦いは航空機中心を想定していた。その戦いのためには「米・ソ合力に対抗し得る実力を養成」する必要がある。それは資源の乏しい日本ひとりでは無理な話である。満州の資源利用により日本の限界を突破する。石原にとって満州事変は、理想実現への不可欠の一歩だったのである。しかし、世界はこうした中国の主権を侵害する満州国を認めなかった。日本は国際連盟脱退で答えた(1933年3月27日)。
しかし、ソ連は革命後の混乱から脱し、スターリンの下で5か年計画を進めたため、アジアでの軍備は満州国を大きく上回るようになった。戦を支える経済力を拡大するのが緊急の課題になった。満州では石原が、盟友である宮崎正義に委託して1936(昭和11)年に、「日満産業五箇年計画」を作り上げた。ただ、先を行く米・ソに追いつくには、満州の利用だけではとても間に合わない。資源も満州は想定ほど豊かではなかった。
したがって、矛先は中国の華北に向かう流れだったが、石原は世界最終戦争論に基づく産業強化優先の立場から、戦争拡大には反対した。しかし、軍は動きを止めない。たとえば「内蒙古工作」である。36年5月に内蒙古でのソ連、中国国民政府の動きを封ずるため、現地の徳王を委員長とする自治委員会を関東軍が立ち上げた。これがソ連、中国を刺激するのを懸念して、軍中央は中止を指令した。その使者が石原だった。これに対し、武藤章(のち軍務局長)が反論した。「あなた(石原)が満州事変でされたことを、内蒙で実行している」。このように今村均(のち大将)が回想している。これが11月のことである。出先が独断専行する悪い前例は、マネする人間がでる。大陸の出先での暴走を抑えることができなくなっていたのだ。
36年に二・二六事件が起き、1937(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起こってからは、中国への侵略は歯止めが利かなくなっていた。戦争拡大に反対する石原は軍の主流と対立して38年に左遷され、41年に辞表を出すに至る。
中国の資源を利用して、米・ソに対抗する経済力を作るという、石原構想は吹き飛んだ。石原構想が合理的だったとは言い難いが、それ以上に哲学のない暴走が始まった。
それにしても、アジアの戦争では、長い付き合いの国々なのに、日本人に相手への同情が生まれなかった。誠実なアジア主義の人々もいたが、本当に少数だった。一方、中国では1919(大正8)年、五・四運動に際し、北京大学の学生が侵略に抗議する、日本国民への手紙を書いている(「原典中国近代思想史4」)。結論は「(手を携えて)かの人道の害虫、平和の障害である侵略主義者を絶滅して、平和の東亜新天地を建設しよう」である。当時問題になっていた青島返還と絡めて、戦争は互いの国民を苦しめると冷静にいう。軍部と国民を切り離す戦術ではあるが、全体に若いのに大人の感じの言い方である。