攘夷とは「夷狄(外国人)を打ち払うこと、国内に入れないこと」。朝貢なら許すのだろうが、結果としては鎖国の維持である。問題は二つに絞られる。第一は、日本の思想の流れの中で、攘夷思想をどう位置づけるか。国学との関連など、思想史では必ず触れられている。中でも渡辺浩氏の「日本政治思想史」が現実への目配りも含め優れていると思う。第二は思想が行動にどのように現れたのか。ここでは「攘夷行動」を整理してみたい。
とはいえ、攘夷を叫んだ志士たちの基礎教養に簡単に触れておきたい。佐藤信淵の「混同秘策」(1823年)では、最初から「皇大御国ハ大地ノ最初ニ成レル国ニシテ世界万国ノ根本ナリ」「万国ノ君長皆臣僕ト為スベシ」と勇ましい。水戸学の藤田東湖は「天地正大ノ気、粋然トシテ神州ニ鐘(あつま)ル」と歌い(1830年)、志士が愛誦したという。彼の正気の思想とは、天から人間・自然に降り注ぐ「気」が日本に集まっているという考え方だ。佐藤信淵も藤田東湖も、日本は本来素晴らしいと言って、人々を鼓舞した。
現実の動きに移る。ペリー来航から始めるのが普通だろうが、その前に天保(1830~1844年)に触れたい。全国的に凶作が続き、特に東北地方では餓死者が出るほどだった。大阪では大塩平八郎の乱が起きた。農村から都市に人々が流入し、農村の一揆・打ちこわしは、農民同士の戦い、反体制化という、以前にはなかった様相を呈した。その後、小康状態だった嘉永6(1853)年6月に黒船が現われた。
幕府の動きは素早かった。ペリーが立ち去った直後にオランダからの戦艦購入を決定し、8月には水戸藩に旭日丸の建造を命じ、自らも鳳凰丸の建造に乗り出した。9月には200年以上続いた「大船建造禁令」を解除した。しかし、蒸気機関、大砲など欧米との技術格差が大きすぎるため、すぐに追いつくはずはなかった。
幕府が「日米修好通商条約」の受け入れを決定したのが、安政5(1858)年春である。この勅許を求めて京都に行った老中堀田正睦は孝明天皇の拒否に遭い(3月20日)、手ぶらで江戸へ戻った。そして大老井伊直弼のもとで6月19日に運命の「無勅許調印」がなされた。それを怒ったのは孝明天皇ばかりではなく、広範囲で攘夷運動が噴出した。その結果が安政7(1860)年3月3日の桜田門外の変である。水戸浪士を中心とする尊皇攘夷の一団が、井伊大老を白昼堂々暗殺したのである。
このときも幕府の対応は素早かった。尊皇攘夷勢力の沈静化、幕府の求心力最強化をめざし、将軍家茂と皇女和宮の婚姻を図った。その際、万延1(1860)年7月29日に幕府は、孝明天皇に提出した長文の「老中勅答書」で攘夷を約束した。「当節より78年ないし10ケ年を相立て候ふ内、是非是非応接を以て引き戻し候か、または干戈を振って征討を加え候か」というのが読み下しだ。交渉によって通商を謳わなかった「日米和親条約」レベルに戻すか、戦争をするというのだ。追加して「前以て箇様とは申し上げ難く候」など留保をつけている。「7、8~10年」という時間に確信があるわけではない。これは前二回が天皇に却下されて三回目の答だという。苦し紛れの数字だったのだろう。
この約束に続いて、天皇は将軍に「いつ、どうするのか」の具体策を聞きたいという。幕府は戦争をするつもりはない。海戦をする船もなく、操船技術も習得中だからだ。だから何とか平和裏に条約を変えたい。実際、文久1(1861)年12月には文久遣欧使節、横浜鎖港談判使節団という二つの使節を海外に派遣している。収穫としては新潟、兵庫の開港予定を1863年から68年に延期することが認められただけだった。
通商条約そのものは欧米が破棄を認めず、現実は動かない。現状と対策を天皇に直接説明するため、将軍家茂が文久3(1863)年2月に江戸を発ち、上洛した。京都では「攘夷実行」の期日決定を迫られた。そこで4月23日に「5月10日」と言明した。
この「攘夷実行」は、「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべし」「自国海岸防備の筋、いよいよ以て厳重に相備え、襲来候ふ節は、掃攘致し候ふ様」という命令を大名に伝えることだった。襲って来たら追い払えという、何とも当たり前のことで、期日を設定する意味はない。しかも、仮に襲って来たら防ぎようがない。そこが最大の問題なのだが、これで朝廷も一応納得した。朝幕とも本質を避けて形を作ったということか。
攘夷期日の5月10日、長州藩がアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。「襲来候ふ節」でないことは明らかだ。幕命が現場に徹底されていなかったのか、あるいは幕府に対する「いやがらせ」なのか。ともかく長州藩は攻撃して、のち外国勢の報復に敗れた。
この文久3年には八月十八日の政変、次の文久4年は蛤御門の変。争点は攘夷から国内秩序に移る。朝廷は長州藩、直接攘夷派の公家を排し、幕府に接近した。いわゆる一会桑政権が京都政界を押さえる。幕府も洋式の軍隊制度を一部導入するなど、西欧へ追いつく努力を続けた。失政は長州征伐だろう。元治1(1864)年12月終了の第一次は蛤御門の変への懲罰目的だが、征長総督徳川慶勝(前々尾張藩主)、参謀西郷隆盛などが早々に切り上げた。しかし、慶応2(1866)年6月開始の第二次は大義が不明確だった。現実的な武士らしくもなく、古い武威の世界の再来を夢見て失敗した。
攘夷でいえば、異人斬りのような直接行動「小攘夷」ではなく、じっくり体力をつけてから実行するという「大攘夷」がコンセンサスになってきた。かつて朝廷に約束した「10年以内の攘夷」は1870年までのことである。長州一藩にかかずらうより、海軍の強化などへ努力を集中するのが正解だったはずだ。
そうした取り組みを続けていれば、幕府軍強化ではなく、藩を離れた国民軍形成の構想が生まれたかもしれない。しかし、巨大な大名の軍事政権である幕府が国民軍を作るのは、もともと無理があった。武力を各藩が保有する幕藩体制そのものと衝突する。洋式軍隊だと、身分・家格制度とも齟齬をきたしかねない。慶応2(1866)年には将軍徳川慶喜が幕府軍制の大幅改革をするが、幕藩体制の範囲での最大限の努力だった。結局、攘夷追求は、幕藩体制の限界をあぶりだす結果をもたらしたのである。
逆に言えば、明治維新とは「対外戦争ができる国」の建設へのスタートだった。目的は明確だった。欧米の脅威への対応を急いだのである。人間観の転換に基づく市民革命ではなかった。権力への抵抗精神、個々人の自立という、根本的な近代化の理想を福沢諭吉は説き続けたが、そうした議論ができるようになったのは、確かに進歩だった。
一方で攘夷の心情は生き続けた。文明開化の名で西欧化を強引に進める明治政府に対し、それに乗れず、反感を抱く多くの日本人がいた。御一新のはずが、貧富の差の拡大など、もとより悪くなってきたと感じる人もいた。こうした土俗からの抗議は消えず、のち昭和維新を求め大爆発した。しかも、近代化vs土俗の対立・分裂は、社会層の対立だけでなく、国民一人一人の心の中に起きた。日本の近代文学を貫くテーマだった。その心情は幕末から現在、さらに未来まで続く根深さを持っている。