3-8 「護良親王」を読み解く

 護良親王はビッグネームとは言い難い。そこでプロフィールから始める。

 延慶元(1308)年に生まれ、建武2(1335)年に死んだ。二十代の若さだ。父は後醍醐天皇。幼い時から寺にはいり、還俗したのが元弘2(1332)年。反鎌倉幕府のゲリラ戦を経て、11月からは吉野を拠点に公然と倒幕の戦いを進めた。幕府滅亡直後の元弘3年6月に征夷大将軍になるが、8月には将軍を廃された。次の年の建武元(1334)年11月に朝廷内で身柄を拘束されて武家に預けられ、鎌倉に護送された。翌年の建武2年7月に、中先代の乱の混乱の中で誅殺された。

 彼はわずか三年間だが、政治の最先端にいた。彼の死後、後醍醐は建武3年12月に吉野に逃れ、いわゆる南朝を開いて戦い続けた。それが一段落すると、室町幕府のトップ二人(足利尊氏、直義の兄弟)が戦いを始める(観応の擾乱)。次々と大事件が起きるため、護良事件は単なるエピソードの扱いをされるのが普通である。

 

 彼は親王らしくない、戦の上手い人物だったらしい。それも邸宅の中から指令を発するのではなく、鎧をまとって現場に出ていく。有名なのが吉野の蔵王堂の前で、甲冑姿で同志と別れの盃を交わす場面だ。数十人の武家とは主従関係を結び、のちの播磨守護の赤松円心にも令旨(命令書)を発しているなど、武家と親密だった。さらに武家より身分の低い運送業者のほか、いわゆる「あぶれ者」のような人たちを組織化していたらしい。倒幕の先端を走ったのは護良親王と楠正成の二人である。倒幕の大功労者ではあるが、短命でもあり、政治史を見る上では、それほど重きを置かれない。

 鎌倉幕府が滅び、護良は天皇から法体に戻るように勧められたが、「武において朝家を全うせん人たそや」(武力で天皇家を守るひとは誰だ)と反発し、望み通り征夷大将軍になった(太平記12巻)。この時が人生のピークだった。以降、後醍醐・護良の間には対立が始まる。そもそも後醍醐は自分の意思が末端まで徹底しない可能性のある、将軍―御家人という主従制度を認めるつもりがない。実際に御家人制度を廃止した(実際に行われたかは疑問だが)。護良は主従制度を利用して倒幕運動を進めた。根本的な対立である。

 結局、護良は武家に身柄を引き渡される。その理由が二説ある。護良が帝位簒奪を狙っていると思った後醍醐が許さなかった(「太平記」)。室町幕府寄りの「梅松論」は後醍醐天皇が足利尊氏追討を計画し、それを知った尊氏が追及すると、「それは護良が独断でしたこと」と答え、護良を引き渡したという。したがって、護良は鎌倉で「武家(尊氏)よりも君(後醍醐天皇)の恨めしくわたらせ給ふ」(梅松論)と独り言をもらしたという。

 

 いずれにせよ、護良の物語はこれで終わる。(新井孝重氏の「評伝」が詳しい)。では、自ら征夷大将軍を望み、武家と関係を深めていった目的は何だったのか。権力が欲しいという軽薄な思いつきだったのだろうか。ここからは想像である。護良は後醍醐の「延喜天暦の治」(10世紀の前半)への復帰という路線に反対だった。後醍醐が理想とする400年前のような武家を排除した統治が、いまや非現実的と考えるため、武家を朝廷秩序の中に取り込む方法を模索していたのではないか。ごく一部の武家とはいえ、配下に組織できたのは、単なる暴れ者、戦好きではなく、それなりの知的側面をうかがわせる。ただ、武家を組織化すると、「自分の権力を強めようとしている、謀反を企んでいる」と、現在の権力者の疑いを招く、危険な道であるのは確かだ。

 「武家同士が戦っている状況だと中立の朝廷は中心になれる。しかし、武家が一本化したら、力で押される。鎌倉幕府がそうだった。それなら自分が将軍となり、その下に有力武将を集め、それぞれには守護としての地位を安堵すればいい」と、護良が思っても不思議ではない。ただ、仮にこう思っても、武家も公家もともに受け入れないだろう。護良の行動は、武家からすれば「公家の気まぐれ」、公家からすれば「貴公子の火遊び」と、冷たい視線を向けるだけだっただろう。公武から変わり者と見られただろう。ただ、この時期は「権力としての天皇」が復活する最後のチャンスだったのは確かだ。

 当時の公家は武家を馬鹿にしている。武家は公家に奉仕するのが当然と考える。護良には武家を馬鹿にしたようなエピソードは残っていない。その点でも。やや変わっていた。そのため、結果は、朝廷内で浮き、天皇に疎まれ、武家には敵視された。朝廷の神話由来の身分に基づく組織原理と、主従制に基づく戦闘者の組織原理とは、護良個人が両方受け入れても、社会的には融合せず、この両原理の狭間で護良は行き場を失ったのである。

 以上は彼の行動か推測したものでしかない。彼が考えを書き残した文書は残っていない。残っているのは、定型的な寺社などに宛てた令旨(命令書)の類だ。仮に、生き残ったら、その後の南北朝争乱の中で、護良は何をしたのだろうか。それにしても鎌倉で殺される前の数か月、理解者のいない孤独感・絶望は同情したくなる。

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