武士の間では争いが絶えなかった。小さなことでは荘園の境界をめぐる争い(境争論とよばれた)。この訴訟記録は数多く残っている。このほかに、武士団内部、武士団間、もっとも大きな意味を持つのは、もちろん「天下」をめぐる大規模戦争である。
源平合戦のころは、ある武士団が巨大化すると、それに対抗する勢力を支援して、バランスをとる、或いは両方とも勢力を削ぐのが院の基本方針だった。後白河上皇の抑圧の標的になったのは、平清盛、源義仲、平宗盛、源頼朝、源義経など軒並みだ。鎌倉幕府の源頼朝が死去したのちは、御家人間の争いが始まり梶原氏、比企氏、和田氏、畠山氏、三浦氏、安達氏など有力御家人が軒並み滅ぼされ、北条氏が一人勝ちした。頼朝は縁戚も滅ぼし、頼朝の子供の頼家、実朝は殺害された。結果、頼朝流源氏が滅亡した。
鎌倉幕府が滅亡したあとは南北朝の対立が始まり、平行して足利尊氏・直義氏という兄弟が幕府を二分する勢力として対立した(観応の擾乱)。これが終わってからは、足利氏(室町殿)の大御家人抑圧政策により戦争が起こり、さらに一族の室町将軍と鎌倉公方の間がもめにもめた。三代将軍義満は戦によって土岐氏、山名氏、ついで大内氏の勢力削減を、実現した。義満は武家の棟梁にとどまらす、朝廷でも太政大臣にのぼり、次いで出家し、天皇行幸と同じ様な方法で比叡山に登るなど、天皇と並ぶ権力を誇示した。このあとも室町将軍の義教が、招かれた赤松邸で殺された。将軍と鎌倉公方の対立は続き、これにからんで関東は享徳の乱(1454年)により西国より一歩早く戦国時代に突入する。
このように武家政権は安定しない。主従制は一人の主に全員が結集するまで、 トーナメントを続ける。参加資格はだれも同等なのだ。劣勢の武士団を活性化するには、自分が主人に代わる「下克上」しかない。これは全国レベルでも、地方レベルでも同様の過程をたどる。戦国時代は地方に領国が形成され、次には複数の領国を統治する主人を選定していく過程である。すべては戦の勝利を通過するのが条件だ。
こうした戦争のなかで、一種の経験則があるような気がする。それは朝廷との関係にある。つまり「朝廷に近づくと負ける」というものである。たとえば観応の擾乱では、兄尊氏と弟直義とで勢力は伯仲し、一時は直義のほうが優勢だった。両者の御家人政策の違いは極めて小さい。違いは、直義が公家を含めた秩序を考える傾向があるのに対し、尊氏は身近な御家人中心に発想する。これも「どちらかといえば」という程度の差である。しかし、このニュアンスの違いが武士の結集力の差になっていたのではないか。結果は尊氏が勝った。この兄弟はもともときわめて仲が良かったが、時代がそれを許さなかった。
「吾妻鏡」は頼朝を悪くは書かない。初代の鎌倉殿を貶すわけにはいかない。しかし、例えば、富士川の戦いのあと頼朝が京都に攻め上ろうとして、御家人達に止められる場面がある。これはもしかしたら、一種の批判ではないか。頼朝の妻政子が娘の大姫をつれて京都にいく場面があり、多分入内の話で行ったのだろうと推測される。が、これも読んだ御家人は頼朝の公家体質と批判的に読むのではなかろうか。御家人間で最初の粛清の対象になった梶原氏は京都に逃げようとした。これも公家との親近関係を示唆する。蹴鞠好きな源頼家はいいことが一つも書いてない。公家に近づく武士を、御家人一般は冷たく見ていたのである。当時の武士の受け取り方は、現代の我々とは違っていたはずである。
足利義満が朝廷の最高位に登った(花押も公家式を使った)のは、家臣からすると、苦々しいことだったのかもしれない。時代が離れすぎるが、「太閤」秀吉は九州平定後、太政大臣として聚楽第に天皇を招待し、栄華を見せつけたが、これも本当は武士の支持者を減らすことをしていたのかもしれない。
結局、武士は武士だけのなかで、一人のリーダーを選定する作業を続けた。では徳川氏はすべての大名を家臣に出来たのか。それが出来たのなら、親藩・譜代・外様などという大名区分は必要がなかっただろう。それでも1615年の大坂夏の陣で武家の棟梁の地位を固め、戦争のインセンティブが消えた。朝廷との関係も一定の距離を保っている。しかし、リーダーを一人に絞るのに何人が犠牲になったのだろう。主従制は戦いを遂行するシステムとしては有効だが、リーダー選びとしては時間がかかりすぎる。非効率な欠陥システムだったと言わざるをえない。