皇国史観の平泉澄氏は、室町時代とは「どれほどつまらぬ時代であるか」、「お話すべき価値あるものは、ない」と断言している(「物語日本史」)。確かに天皇制度にとっては逆風の時代だった。武家は南北朝から観応の擾乱、足利義満の太政大臣就任、足利義教の恐怖政治、享徳・応仁の乱、守護大名の成立など、生き残りをかけた長い戦いは終わらない。
ただし室町時代は歴史が大きく動いたというより、その後の大変動に向け、地殻変動のマグマをため込んだ。武家の攻防ほど派手ではないが、貨幣経済の急速な進展、物流網の着実な拡大は、その後の大名領国を超えた経済圏を予想させるものだった。
この時代、1392(明徳3)年に南北朝が統一された(南北が交代で天皇を出すという約束は反故にされ、北朝が独占した)。公家対武家の主導権争いは、後白河上皇対平清盛に始まり、後鳥羽上皇対北条義時、後醍醐天皇対北条高時、後醍醐天皇対足利尊氏という争いを経過し、三代将軍足利義満により武家優位が固まった。これ以後は「主上御謀反」という事態は起こらなかった。実は南北朝争乱自体が武家(足利氏)対公家(南朝)というより、武家対武家の争いに天皇家の分裂が重なったといったほうが正確だろう。
そうして生まれた室町幕府は、まだ鎌倉幕府の延長線上にあった。御成敗式目はそのまま生きており、裁判制度もほとんど変わっていない。守護・地頭という基本制度も同じ。古代の権威につながる清和源氏の貴種が将軍になった点も相似形である。変わったのは、公家の本拠地である京都に武家政権を置いたことである。あくまで天皇家が支配の主体とする南朝を追い出して、おとなしい北朝を強引に据えた。南朝からすれば、朝廷の正統な継承者とは絶対に認められない「違法」を押し通した。政争に翻弄され続けた北朝の光厳院は、南北統一後、禅僧として丹波の閑寂な寺で静かに暮らした。異例である。死後に法事はするな、村人・童が塚の上に小塔を立てるくらいはいいという遺言は、同情を誘う。
義満は異例の権力者になった。1369(応安1)年に征夷大将軍になったのは武家の棟梁としては当たり前だが、1382(永徳2)年に左大臣、1383年に源氏長者、1394(応永1)年には公家のトップの太政大臣になっている。源氏長者に武家源氏が就くのは初めてであり、武家の太政大臣は平清盛以来である。
義満が1408年に死ぬと、「鹿苑院太上法皇」の称号を朝廷が贈ろうとした。これは空前絶後の事態である。臣下のはずの武家を上皇(天皇の父)と同じ扱いにしようというのだ。彼が偏愛した四男の義嗣を天皇につけ、自分が上皇になる「簒奪」計画を想定する説もある。義嗣が朝廷で親王と同じ形式で元服したことも、この説の根拠となっている。しかし、義満が朝廷を引き受けようと思うだろうか。武家とは組織原理・運営方式が異なりすぎる。運営がうまくはずがない。権威を高めるだけが狙いでも、引き受けないだろう。称号は南朝を解体してくれた義満へ、朝廷が最大限のお礼をしたということだろう。
鹿苑院太上法皇の称号を、長男で四代将軍義持は断わった。宿老斯波義将なども受けるのを反対した。武士たちは義満が朝廷との関係を深め、いまの金閣寺の地に豪華な建物を建てるのを苦々しく見ていたのだろう。そして、義満の朝廷制圧を境に、室町幕府は弱体化していく。南朝・公家という「敵」が消えたため、武家内部の争いが表面化した。戦乱の中で、守護は国内の地頭・国人の被官化、荘園の侵食を進め、自立へ歩み始めたのだ。これから200年にわたる「自己主張」の時代が始まる。
まず表面化したのは将軍義持と、義満が偏愛した四男義嗣との不和である。義嗣は北畠氏と組んだ計画が失敗したのち、出奔すると義持は探し出し、結局は殺している。理由は鎌倉府で起きた上杉禅秀の乱への関与である。幕府(将軍)と鎌倉府(鎌倉公方)は同じ尊氏の子孫だが、早くから仲が悪かった。鎌倉公方を支える事務局のトップ関東管領は、鎌倉公方ではなく幕府に人事権があり、鎌倉公方は常に監視されているようなものだった。
義満は朝廷制圧と併行し、強力な土岐氏、山名氏、大内氏などの力を削いでいる。武家内での立場は盤石に見えた。しかし、あと知恵を承知で言うが、朝廷運営に深入りせず、武家内部で組織再編をする道はなかったのだろうか。たとえば鎌倉府との一体化である。ただ、仮にそう動くと、足利対足利の観応の擾乱の再現になってしまったのだろうか、それとも鎌倉府が足利氏以外を核にして自立することになったのか。
幕府は、「万人恐怖」と公家が評した六代将軍足利義教(義満の息子)が、1441(嘉吉1)年に播磨守護の赤松満祐に暗殺され、権威を失墜してからは、守護の統制がままならなくなる。守護が自立を指向するのと裏腹に、足利氏のネットワークは分断、縮小されていく。足利氏の清和源氏の貴種という出自が価値を持たない時代に入ったのである。